この日は波が穏やかだった小茂田浜。ここから見える海が元軍で埋め尽くされていたのかも…と思うと、風景が少し違って見えてくるこの日は波が穏やかだった小茂田浜。ここから見える海が元軍で埋め尽くされていたのかも…と思うと、風景が少し違って見えてくる

 戦争の歴史のなかでは、こうした圧倒的戦力差が生まれることはしばしばあります。映画『300(スリーハンドレッド)』では押し寄せるペルシャ軍(映画の中では100万人とうたわれていました。)にたった300人で立ち向かったスパルタ軍の激闘が描かれますが、対馬沖を埋め尽くす900隻とも言われる船団を見た武士たちは戦慄したことでしょう。『ゴーストオブツシマ』では襲来した元軍にひとり立ち向かう主人公の戦いが描かれています。

海路の要衝ゆえの苦闘

殿崎にある日露慰霊の碑。潰走し、この地に流れ着いたロシア兵143名を対馬の人々は介抱した。戦没者の人数差が両国の歴史を左右するほどの一戦だったことをうなずかせるが、近くには対馬の住人がロシア兵に水を飲ませた井戸などが普通に残っており、海戦後のエピソードを記したモニュメントなどもある。教科書では触れることのない当時の時代性を感じさせるエピソードが読み取れる史跡も多い殿崎にある日露慰霊の碑。潰走し、この地に流れ着いたロシア兵143名を対馬の人々は介抱した。戦没者の人数差が両国の歴史を左右するほどの一戦だったことをうなずかせるが、近くには対馬の住人がロシア兵に水を飲ませた井戸などが普通に残っており、海戦後のエピソードを記したモニュメントなどもある。教科書では触れることのない当時の時代性を感じさせるエピソードが読み取れる史跡も多い

 福岡から120キロと少し、韓国からは約50キロと、むしろ韓国との距離が近い対馬は、日本と大陸との文化のかけ橋であるとともに戦いの最前線でもありました。

 豊臣秀吉の朝鮮出兵においては対馬を治めていた宗家が(大陸との交易の窓口を担っていたのに)戦いの先導役を命じられます(そしてその後、徳川幕府に代わってからは和平交渉も任される…会社とかで一番やりたくないマッチポンプ状態…)。

 日露戦争においては対馬沖でロシアのバルチック艦隊と東郷平八郎率いる連合艦隊が激突。日本海軍は大勝します。当時両軍が激突した際の砲撃音は島に住む人々にも聞こえたといいます。

 この戦いは日本語では日本海海戦で通っていますが、海外では「The Battle of Tsushima(対馬の戦い)」という名の方が一般的であり、海外の方が『ゴーストオブツシマ』以外で対馬を知る入口にもなっています。このように、古くは白村江の戦い(金田城跡は今後レポートします)、鎌倉時代の元寇、安土桃山時代の朝鮮出兵、明治の日露戦争と対馬は時代の要所で歴史の舞台になってきました。