なぜモンゴルは
見返りの少ない日本へ来襲したのか

 それが戦後になって、ようやく変わりました。日本の歴史家があまりしっかり研究してこなかった問いでしたが、むしろ東洋史、モンゴルの専門家の方々が調査し、考察し始めたのです。それを機会として30、40年前あたりから、認識がかなり変わってきました。

 趙良弼(ちょうりょうひつ)という元の使者が書いたレポートがあります。モンゴルは文永の役と弘安の役の2度にわたり、日本へやってきたわけですが、この人はその文永の役の前にフビライ・ハンのもとから派遣され、日本にやってきています。そして1年近くも日本に滞在し、様子をよく見て、報告したのです。

 ではその趙良弼がどのようなレポートを書いていたかと言えば、まず「日本という国は狭いです」と。そして「ろくな作物が育たず、豊かではない。人間も野蛮で、皇帝陛下がわざわざ日本を征服しても、何の見返りもありません。だから、やめるべきです」と報告していた。

 そうした事実がわかってきたので、あらためて「ではなぜモンゴルは、そんな日本に攻めてきたのか」という疑問が論じられるようになったのです。

中華帝国の
後継者としてのモンゴル

 さてそれで、東洋史の方々の考察から出てきた答えは「モンゴルは当時、中華帝国の後継者であることを全世界に対して示そうとしていた」というもの。

 モンゴルは、漢民族からすると北方の異民族です。もともと中国大陸ではよく征服者として北方の異民族が万里の長城を越えて攻めてくるのですが、モンゴルはそのひとつだった。そして中国大陸はもちろん、全世界へその領地を広げたわけですが、五代皇帝フビライ・ハンは、ことのほか中国大陸の征服に熱心だった。中国大陸をほぼ制圧した段階で、元という中国風の国号を定め「我々は中国大陸の歴代王朝の伝統を受け継ぐものである」と内外に示したのです。

 歴代王朝の伝統を受け継ぐということは、中華思想の後継者となるということです。そして中国の皇帝は、天の神様の子。すなわち「天子」。

 天から、下々の民草を導けという天命を受けた存在である。その天子がトップに立つ元は、東アジア、いや彼らの視野では全世界で、もっとも高度な文明を持ち、もっとも高度な文化が花開いた素晴らしい国ということ。