橘玲の日々刻々 2021年6月11日

誰もが知っていながら報じられない
「労働者」以前に「人間」としてなんの権利も
認められていない非正規公務員の現実
【橘玲の日々刻々】

 日本社会には、誰もが知っていながらも積極的には触れないこと(タブーとまではいえない)がいくつもある。共通項は、(1)解決が容易でないかほぼ不可能なことと、(2)それでも解決しようとすると多数派(マジョリティ)の既得権を脅かすことだ。そのため、解決に向けて努力することにほとんど利益がないばかりか、逆に自分の立場を悪くしてしまう。こうした問題の典型が「官製ワーキングプア」すなわち非正規で働く公務員の劣悪な労働環境だ。

Photo :mits / PIXTA(ピクスタ)

 これは多くのひとが知るべき事実だと思うので、今回は上林陽司氏の『非正規公務員のリアル 欺瞞の会計年度任用職員制度』(日本評論社)を紹介したい。上林氏は10年にわたって官製ワーキングプアの問題に取り組んできた第一人者だ。

「正規と非正規の専門性の逆転」

 この本には驚くような話が次々と出てくるが、そのなかでもっとも印象的な事例を最初に取り上げよう。

 2015年、27歳の森下佳奈さんが多量の抗うつ剤や睡眠導入剤を飲んで自殺した。佳奈さんは臨床心理士になることを目指して大学院で勉強し、卒業後、「障害のある子どもたちや何らかの困難を抱える人たちに寄り添う仕事」に就きたいと北九州市の子ども・家庭相談員の職を選んだ。だがその条件は年収200万円程度の任期1年の非正規で、それに加えて上司から壮絶なパワハラを受けることになった。

 佳奈さんが両親や知人に送ったメールには、「また無視される1週間が始まるよ」「顔見るなり『生きてましたか?』とだけ」「同年代の相談者と結婚したらいいんじゃないですか」「昨日もまた2時間、研修行かせてもらえず面談室に呼び出されて問い詰められ、泣かされたよ。辞めたい」「給料分働いていない。自覚がない。意欲がない。と繰り返されました。」などの悲痛な叫びがつづられていた。この上司が佳奈さんに「このままやっていたら、(相談者が)死にますよ」などといったため、「私にはできない。このままじゃ、ひとが死んでしまう。」と深く思い悩んでいたこともわかっている。

 佳奈さんの両親は、生前の話やメールをもとに、日常的に上司から嫌がらせを受け、難しい対応を迫られる案件を入所半年の佳奈さんに担わせるなどしたとして、公務上災害の認定と補償請求に関して北九州市に問い合わせた。それに対する回答は「非常勤職員の場合は(常勤職員と異なり)、本人ならびに遺族による認定ならびに補償請求は認められない」という門前払いだった。労災で争う以前に、労災の申請すら許されないのだ。

 2017年8月、両親は北九州市を相手に公務災害補償の請求などを求める裁判を起こし、翌18年には当時の野田聖子総務相に、「「困難を抱えた子どもたちの助けに」という夢をもって就職した佳奈さんが数カ月で元気を失い、追いつめられていった過程や、死後も労災請求すら許されなかった事情」を手紙で訴えた。野田総務相からは、「心痛はいかばかりかと胸のつぶれる思いです」「娘さんが苦しまれた、そんな状況を二度とおこさないよう変えていきます」と記された手書きの封書が届いた。

 それにもかかわらず北九州市は主張を変えず、一審の福岡地裁は、市が「条例規則を改正せずに放置してきたこと、申請を門前払いしたことなどに違法性はない」と両親らの請求を棄却、二審の福岡高裁も「条例の補償内容が、法律で定める補償と均衡を欠くことは立証されておらず、申出や通知に関する規定を置いていないことは理由にならない」などとして一審判決を支持、最高裁も両親の上告を棄却した。

 この痛ましい事件には非正規公務員が置かれた過酷な状況が象徴されているが、ここではまず、「正規と非正規の専門性の逆転」という事態を考えてみたい。

 児童相談員の業務内容は、育児不安、虐待、いじめ、不登校や夫などからの暴力(DV)への対応を求められる高度なもので、そのために佳奈さんは大学院で臨床心理学を学んだ。それに対して、自治体のなかで児童相談所は、生活保護担当と並んで職員が異動したがらない職場となっている。――ある市の児童相談所の課長が、3年で他部署に移すことを約束して児童相談所の職員を確保していた事例が紹介されている。

 その結果、児童相談所は高い専門性をもつ非正規職員と、なんの専門性もなく経験年数の浅い正規職員で構成されることになる。こうしたいびつな組織を束ねる管理職も正規職員で、本書には書かれていないものの、佳奈さんの上司も、大学院はもちろん学部レベルの臨床心理学の知識すらもっていなかったのではないか。

 常軌を逸した執拗なハラスメントは、「若い女」が自分よりも高い専門性をもっており、上司としての権威を脅かすと感じていたとすれば説明できる。そしてこの「専門性の逆転」は、非正規公務員の職場では常態化している。

専門性の逆転を引き起こす日本の公務員の不可解な人事制度

 公立図書館は異なるバックグラウンドの職員たちで構成されている。図書館司書の資格をもつ正規公務員、それを補佐する、これも図書館司書の資格をもつ非常勤職員。ここまでは誰でも思い浮かぶだろうが、これに「役所内の人事ローテーションで図書館に異動してくる一般行政職の正規公務員」が加わる。このひとたちは司書資格を有さず、異動だからと仕方なく図書館に勤務し、図書館員の仕事を非常勤の職員から教えられてカウンターで利用者への対応をし、2~3年後には他部署に異動する。

 これだけなら「そんなものか」と思うだろうが、図書館の職場をいびつなものにするのは、「異動しない一般職の正規公務員」がいるからだ。その事情を上林氏はこう書く。

 一定の数少ない専門職・資格職を除き、日本の公務員の人事制度において、正規公務員とは職務無限定のジェネラリストで、職業人生の中で何回も異動を繰り返し、さまざまな職務をこなすことを前提とされている。ところがどの組織にも、さまざまな事情で異動に耐えられない職員、最低限の職務を「当たり前」にこなせない職員が一定割合おり、しかも堅牢な身分保障の公務員人事制度では安易な取り扱いは慎まなければならず、したがってこのような職員の「避難所」を常備しておく必要がある。多くの自治体で、図書館はこれら職員の「待避所」に位置づけられ、そして「待避所」に入った職員は、そこから異動しない。

 この構造によって、図書館の管理者である(司書資格をもつ)正規公務員は強い精神的ストレスのかかる立場になるのだという。

 同様の「専門性の逆転」は、ハローワークの求職相談でも日常的に見られる。ハローワークの非正規相談員の多くは期間業務職員で、3年目には一般求職者といっしょに公募試験を受けなければならない(1年の任期で連続2回までは勤務実績に基づき継続雇用される)。

 非正規相談員は、3年ごとの公募試験に備えて、働きながら産業カウンセラー(受講料20万円超)やキャリアコンサルタント(受講料30万円超)の資格を取得する。これらはハローワークの相談員に必須というわけではないが、「履歴書の資格欄を空白にしないため、業務遂行上の能力があると考慮されるであろうことを信じて」高い受講料を払っているのだという。

 ところが同じハローワークに勤務していても、正規職員はこうした資格をほとんどもっていない。無期雇用でめったなことでは解雇されないということもあるが、下手に資格をとると、ハローワークから別の部署への異動を狭めることになりかねないからだ。

 こうして、「正規職員より非正規職員の方が有資格者は多い」という事態が生じる。公募試験会場では、「資格取得に価値を置かない無資格の正規職員が、有資格の相談員応募者を面接し、合否を判定する」という「ブラックジョーク」のようなことが起きるのだ。

 2つめの「ブラックジョーク」は、資格を取るなどして努力すればするほど雇い止めになるリスクが上がることだ。なぜなら、実力のある非正規職員は、能力のない正規職員の上司にとって大きな脅威になるから。実際、山陰地方のある自治体では、非正規公務員の組合運動を主体的に担ってきた当事者数人が、会計年度任用職員制度の移行時に実施された採用試験の結果が悪かったとして、次年度の任用を打ち切られた。

 毎年3月に、ハローワークには公務員関係の求人が大量に出される。一般求職者はこれを見て公募に応じるが、彼ら/彼女たちに求人内容を説明し、書類を渡し、「就職できるといいですね」と励ましているのは非正規の相談員で、公募試験に落ちれば自分が失職する。こうして、「昨日まで求職者の相談に乗っていた職員が、翌日には失業者になって求職相談をする」という事態が起きる。これが3つ目の「ブラックジョーク」だ。


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