◇促成栽培教育の功罪

 かつては、「頭がいい」とは記憶力に長けた人のことを指す言葉だった。日本は、明治維新以後、欧米列強にできるだけ早く追いつく必要があったため、とにかく欧米の知識を詰め込む、暗記重視のコスパの良い促成栽培の教育が重視されてきた。これによって、大学教育の大衆化というメリットが生じ、大勢の知的労働者が生み出されることで、戦後の日本経済の成長につながった。

 問題は、日本がそのまま、学びの形を変えられなかったことである。「覚えなさい」と言うのは、「考えなくていいですよ」と言っているのと、ほぼ同じだ。斬新でユニークな発想やひらめきを押し殺すことがこれまでの教育であり、今に続く「失われた三〇年」は、促成栽培が限界を迎えた証拠なのだ。

 最近、「教養がブームだ」と言われているが、多くの人が身につけたいと思っている教養は、単に知識を詰め込んだ、旧来型の暗記教育に近いものではないだろうか。ネットで引き出せる薀蓄を教養と呼ぶのは、あまりにも無教養である。

◇ネットの弊害

 インターネットは、情報を「覚えることの価値」を下げると同時に、「より強い偏向」を生み出す側面がある。グーグルやフェイスブックは、ユーザの興味や趣味、嗜好を探り出し、パーソナライズされた広告を表示する技術を持つ。この情報の最適化は、「考えない人間」をつくる仕組みとなるだけではない。自分と同じ思想、立場のニュースばかり覗く人に同じような情報を「オススメ」するようになることで、自分と同意見のインフルエンサーやフォロワーに囲まれる環境を作り出す。

 著者の両親は、和歌山の商店街で小さな商店を営み、義務教育しか受けていなかったが、著者は大学まで行った自分よりも、よほど教養があったと感じている。それは、人としての正しい軸を持ち、自分の頭で考えていたからだ。

 今のように情報があふれていなかったからこそ、自分の頭で考えざるを得なかった時代でもあった。裏を返せば、誰でも、どこにいても、自分の頭で考えて、これからを生き抜くための教養を身につけられるということではないだろうか。