今回は、無頼派、新戯作派の小説家であり、戦後に『堕落論』で時代の寵児となる坂口安吾の『日本文化私観』を採り上げる。これは1936年に出版された、ドイツ人の建築家であるブルーノ・タウトの『日本文化私観』が日本において大評判となったのを受けて、書かれた文章である。安吾はタウトの言説に良い意味でも悪い意味でも刺激を受けた。彼にとっては、タウトとは別の観点から「私観」を述べなければならない必要を感じるのに十分な理由があったのだ。折しも当時は戦中戦後の混乱期と大変革期であり、コロナの影響下にある現代との共通点もある。安吾の日本文化についての解釈は、今何を価値判断の基準にしてよいのか迷える私たちにとっても、格好の指針になるように思われる。

コロナ禍の今こそ、坂口安吾の「痛烈な日本文化観」に学ぶべき理由『日本文化私観』坂口安吾著(岩波書店)

 タウトは、浜離宮に表現される深い精神性に感動して涙をこぼしたという。日本の建築、なかでも床の間に、透明かつ単純化した形式美を見出し、そこに日本文化と日本の伝統を「発見」したのである。

 彼は自分が発見した日本文化とその美意識にあうものを称賛した一方で、自分の美意識に合わないもの、たとえば俗なるものの混入や、欧米の猿真似を「イカモノ」として切り捨てた。彼の賞賛したものは日本文化の一側面だったにもかかわらず、彼の文化論は、日本の読者に「ありがたい」と歓迎されたのである。

西洋に「発見」される
日本像に疑念を抱いた安吾

 安吾は、タウトが発見した日本文化なるものが、果たして本当に日本の伝統的なものであり、かつ日本人の精神性が表象されたものであるのかについて、疑問を持った。

 あるときタウトは、富豪に招かれた。富豪は自分の持つ掛物を次々と披露し、人を喜ばせ、茶の湯と礼儀正しい食膳を供したという。

「こういう生活が、『古代文化の伝統を見失わない』ために、内面的に豊富な生活だと言うに至っては内面なるものの目安が余り安直で滅茶苦茶な話だ。」(以下引用はすべて、『日本文化私観』による)

 中途半端な似非インテリの浅薄な日本文化の理解(のちに言われるようなオリエンタリズムの一種)であり、せいぜい金持ちの道楽レベルの美意識を日本文化と呼んでいるのではないか、ということである。さらには、タウトが重要視する建築についても、構造物としての表象には、人工的な思考の枠組みを持ち込みやすく、その枠内で造った空中の楼閣に過ぎない、と安吾は考えたのであった。