ここから先のお話しをするためにも、チンさんのこれまでのキャリアについても触れておかなければなりません。

 高校卒業後、チンさんは台湾の国立成功大学のインダストリアルデザインコースに入学しました。カーデザインは課程の中のほんの一部に過ぎないことを知り、機械工学のプログラムに編入しました。そんな折、日本のクルマ雑誌でアートセンター・カレッジ・オブ・デザインの存在を知りました。

 カリフォルニア州パサデナにあるアートセンター・カレッジ・オブ・デザインは、カーデザインを志す学生にとって名門中の名門として知られ、この大学に通った著名なカーデザイナーを挙げたらキリがありません。チンさんは、すでに機械工学の学位を取得していたため、この大学のトランスポーテーション(交通)プログラムの上級クラスの単位を取得することができ、1980年に卒業しました。

「卒業後はGMの面接を受け、1981年にGMの子会社であるドイツのオペルでデザイナーとして働くことになりました。当時のオペルには、クリス・バングル氏(編集注:元BMWグループのチーフデザイナー)や、マーク・ジョーダン氏(編集注:後に北米マツダで活躍)など、アートセンター・カレッジ・オブ・デザインの卒業生が多く働いていました」と言います。

 1980年代半ば、マーク・ジョーダン氏がマツダに移籍したのを機に、チンさんはドイツを離れて再びロサンゼルスに戻り、当時開発中だったマツダ「ロードスター」のクレイモデルの微調整にも参画します。その後、「Mクーペ」や「Mスピードスター」など、「ロードスター」をベースにしたコンセプトモデルの上級デザイナーとして参加。そうして取り組み始めたのが、「RX-7 FD」だったのです。

目指したのは
“未来のクラシックカー”

MAZDAMAZDA

「RX-7 FD」をデザインするのは、非常に困難な作業だったそうです。図面やアイデアをつくっては捨て、つくっては捨てを繰り返し、ディテールに至っては技術者との意見のぶつかり合いは日常茶飯事だったのです。そもそも、チンさんと俣野さんの2人が所属する北米マツダチームは、その後社内コンペとして広島・横浜・イギリスのマツダデザインチームと競う必要もありました。

「『RX-7 FD』には流行に左右されない、時代に耐え得るデザインが求められました。ペブルビーチ・コンクール・デレガンス(編集注:カリフォルニア州で毎年開催される「モンテレー・カー・ウィーク」の中の有名イベントの1つ。クルマ好きの富裕層が多く集まり、数々のクラシックカーが展示されます)への参加は、全てのカーデザイナーにとって大きなイベントですよね。トム(俣野さん)との会話の中で、50年後のペブルビーチ・コンクール・デレガンスに私たちの『RX-7 FD』が出展されている姿を想像してみよう…となったんです。『未来のクラシックカー』こそが、私たちが目標とするべき『RX-7 FD』の開発への道筋だったのです」と、チンさんは話します。