橘玲の日々刻々 2021年7月15日

命の〈価格〉はどのように決められるのか?
日常的につけられている人命の値札と公平性
【橘玲の日々刻々】

 新型コロナのような感染症が蔓延して患者が病院に押し寄せると、すべてのひとを治療できず、誰を優先し誰を後回しにするかのルールを決めなくてはならなくなる。日本ではこのトリアージを正面から議論することを嫌い、病院の恣意的な判断を行政やメディアが黙認する不健全な状態が続いているが、日本よりはるかにリベラルな北欧やオランダなど北のヨーロッパでは高齢者に対し、「コロナに感染してもあなたは入院治療を受けることはできない」と通告している。

 アルツハイマー型認知症の新薬がアメリカで条件付き承認されたことが大きなニュースになったが、治療費用は年間600万円かかるという。超高齢社会に突入した日本では、今後、認知症患者は確実に増えていくが、この新薬を保険適用して、巨額の財政支出で(あるいは増税して)治療費用を国が負担すべきなのだろうか。

 このように、生命や健康の議論は金銭問題に直結する。トリアージとは、費用対効果の高い患者(若者)への治療を優先し、費用対効果の低い患者(高齢者)を後回しにすることだ。医療のコストとリターンを考えればこれは理にかなっているが、受け入れるのに躊躇するひともいるだろう。

 誰もが目をそらしているこの問題に正面から向き合ったのが、ハワード・スティーヴン・フリードマンの『命に〈価格〉はつけられるのか』(慶応義塾出版会)だ。著者のフリードマンはコロンビア大学准教授で、応用物理学の学士号、統計学の修士号、生体医工学の博士号をもつデータサイエンティストで医療経済学者でもある。原題は“Ultimate Price; The Value We Place on Life(究極の価格 わたしたちが人生につける価値)。

Photo :Kostiantyn Postumitenko / PIXTA(ピクスタ)

はげしい議論となった「9.11同時多発テロ」の補償問題

 フリードマンは最初に、この本のテーマとして4つの重要なことを挙げている。

(1) 人命には日常的に値札がつけられていること
(2) こうした値札が私たちの命に予期せぬ重大な結果をもたらすこと
(3) こうした値札の多くは透明でも公平でもないこと
(4) 過小評価された命は保護されないまま、高く評価された命よりリスクに晒されやすくなるため、この公平性の欠如が問題であること

 このことがよくわかるのが、2001年の9.11同時多発テロ後にアメリカではげしい議論となった補償問題だ。

 テロ後、米議会は収入の落ち込む航空業界の支援に数十億ドルを支出すると同時に、テロの負傷者や犠牲者の遺族への補償を決議した。これは航空会社や空港、セキュリティ会社、あるいは世界貿易センターなど、訴訟の対象となりそうな組織への提訴の権利を放棄させるためだった(それ以前のテロでは、政府による犠牲者への補償は行なわれていない)。

 この困難な仕事を任されたのが元連邦検事のケネス・ファインバーグで、「9.11テロ犠牲者補償基金」の特別管理者に任命され、「非経済的価値と依存度、経済的価値を組み合わせた公式」を考案した。――以下の記述はわかりやすくするために、1ドル=100円で換算する。

 犠牲者の「非経済的価値」は一律2500万円とされ、妻や子どもなど扶養家族がいる場合は、「依存度」として一律1人1000万円が上乗せされた。

 犠牲者の「経済的価値」は、予想生涯収入から税金などを差し引いた金額が基準とされた。犠牲者の年齢や引退までの予想勤務年数、それまでに予想される収入増の情報も考慮された。ただし、犠牲者には金融機関に勤務する者も多く、非常に高額な年収の犠牲者家族への莫大な支払いを避けるため、予想年収は2310万円が上限とされた。

 このプロセスが完了する2004年6月までに97%の家族が総額7000億円の受け取りに同意し、平均で死者1人につき2億円となった。ただし、補償額の最低が2500万円だったのに対し、最高は7億円を超えており、「ある人の命は、別のある人の30倍近い価値が認められた」。

 問題になったのは、女性犠牲者への支払いが平均で男性犠牲者への支払い額の63%にしかならなかったことだ。家庭で子どもの世話をしていたり、高齢者の介護をしていたりした女性は、働いていない分補償額が少なくなった。

 また、高卒で比較するにせよ、大卒あるいは修士課程修了で比較するにせよ、黒人は白人より賃金が25~30%少ない。女性は男性より賃金が低く、これは経験年数、教育レベル、年間の勤務時間数、業界、職種、人種、未婚か既婚かを問わず変わらない。こうした人種差やジェンダーギャップが、そのまま補償額に反映された。年齢の影響も顕著で、60歳を超えた犠牲者の補償金は、60歳以下の犠牲者の半分にも満たなかった。

 これらはどれも不公正と見なされ、基金には抗議が殺到した。2004年にはファインバーグ自身が、「もしまた同じようなことが起こったら、もしまたテロの犠牲者への補償金が米議会で検討されるようなことがあったら、対象となる受給者はすべて、どのような呼び方をされるにせよ、同額の給付金が非課税で支給されるべきだ、という強い主張が可能である。このような一律支給のアプローチのほうが、管理側にとっても容易なばかりでなく、支給対象者間の格差も最小限に抑えられ、消防士などの救助者の命の犠牲が、株のブローカーや銀行家の犠牲者の命の犠牲より軽く見積もられた、との抗議ができなくなるだろう」と書いた。

 もっとも、実際にこのようにしたら、逆の抗議が殺到して収拾がつかなくなったかもしれないが。


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橘 玲(Tachibana Akira) 作家。1959年生まれ。早稲田大学卒業。「海外投資を楽しむ会」創設メンバーのひとり。著書に『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』『(日本人)』(幻冬舎)、『臆病者のための株入門』『亜玖夢博士の経済入門』(文藝春秋)、『黄金の扉を開ける賢者の海外投資術』(ダイヤモンド社)など。
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