医療資源の再分配政策として、都道府県ごとの病院や医師の配置を替えたり、ある病気についての診療・研究を縮小し、別の病気の対策にその分を再投資したりすることも、そうである。

 ある人たちの命が助かる確率が上がる一方、別の人たちのそれは下がる。国家の政策は、科学研究の成果を踏まえて費用対効果を上げようとすればするほど、功利主義的性格を強く帯びることになる。

新型コロナに対する
国民の“特別”のデフォルト

 だがコロナ禍以前から、緊急搬送先が見つからず亡くなる人や、近くに専門的な病院がないためがんなどの発見が遅れて亡くなる人はいた。旧型コロナウイルスやインフルエンザで亡くなる人の中にも、早く治療を受けていれば助かったはずの人もいたかもしれない。

 しかしそうした問題について、マスコミはそれほど取り上げず、SNSなどでも話題にならなかった。

 どうやってインフルエンザや風疹の陽性判定をすべきか、誰が重症化しやすいか、どこで療養すべきかを、本気で気にする人はあまりいなかった。

 いわば医療体制が不完全なために亡くなる人がいることは、多くの国民にとって「デフォルト(定番、普通のこと)」になっているといってもいいのではないか。

 仮に当該の病気の治療のための予算を大幅に増やしても、別のところにしわ寄せが行くので、あまり深掘りしたくないのかもしれない。

 新型コロナの場合は、初期の段階で、「『外』からやってきた未知の病原体であり、国民の生命にとって脅威であり、徹底的に封じ込めねばならない」というのがむしろデフォルトになってしまい、従来の疾病とは次元が異なる、国民の強い関心の対象になった。

 だから、他の感染症への従来の対応と具体的に比されることもなく、(たとえ無症状の人が多く含まれていても)陽性判明者の数が増えることにパニック的な反応が起きるのだろう。

「五類相当」の対応にしたら、どうなるのか検討することさえ拒絶反応を起こす人が多い。

 感染症で発症するとどうなるのか、何人くらいに感染させる可能性があるのか、致死率はどれくらいか、入院できるのか、といったことに国民が関心を持つのは悪いことではない。

 しかし、あらゆる病気に、今の新型コロナと同じ程度の関心を持ち、心配し続けたら日常生活は送れないし、どれだけ医師や看護師、保健所職員がいても足りず、未来永劫“医療崩壊状態”が続くことにならざるを得ない。