だがタリバンは武器を携えて故郷に戻ったりパキスタン国境地帯の拠点にひそんだだけだった。

 2003年にはゲリラ攻撃を始めて勢力を次第に回復し、地方ではもめ事の裁定をタリバンに頼むこともあったようだ。

 タリバンの戦闘員は4万5000人ないし6万人余りとみられ、これに対してアフガン政府軍は約20万人、国家警察隊は10万人と公称され、数の上では圧倒的な優位だった。

 だが、政府軍や警察の経費は、日本を含む「国際社会」が全額を負担し、装備を米国が供与、指揮と訓練も米軍が行ったから事実上の「傭兵」だった。

 占領軍の指示の下、自国民と戦わされる政府軍兵士の士気は低く、政府軍幹部らが兵の数を水増ししていて給与をポケットに入れるのが常態化していた。

 カブールの米国大使館は巨大な建物で、職員は現地雇用者を含め4000人もいた。通常は、駐在国との外交が任務の大使館は多くても数十人の館員がいる程度だ。

 4000人もいたのは、アフガニスタンの政治、軍事、行政をすべて指導していたためで、米大使館はまるで植民地の総督府だった。

 これでは民心を掌握できるはずがない。今回タリバンの一斉蜂起が起こると大半の州都で政府軍兵が抗戦せず、知事から大統領までが逃亡したのも当然だった。

地方に拠点を確保
住民の信頼を得たタリバン

 1979年に起きたイランのイスラム革命はアフガニスタンに波及し、その社会主義政権は風前の燈となったため、ソ連が介入したがゲリラに勝てず89年に撤退した。社会主義政権はその後3年間はもったものの1992年に崩壊した。するとかつてソ連軍と戦ったアフガンゲリラは8派に分かれて勢力争いの内戦を始めた。無秩序の部族兵は各地で物資懲発や略奪を続け国民は悲惨な状態に置かれた。

 隣国パキスタンにとってもアフガニスタンの混乱は迷惑だっからパキスタン西部に多いパシュトゥン人と同民族のイスラム神学校の学生を中心とする軍事組織の結成を支援し、タリバンが誕生した。

 信心が深いだけに規律が正しいタリバンは住民の支持を得て、内戦を収束させ1996年に政権を確保した。

 イスラム原理主義を掲げ、古来の慣習や道徳を重視する学生主体のタリバンの堅苦しさに閉口する人もアフガニスタン国民の中にはいたと思われるが、内戦を終わらせ平和と規律をもたらしたことで一定の信頼を得ていたようだ。