バブル景気の到来が
2階建て車両の導入を後押し

 2階建て車両をさらに拡大したのが1989年に登場したJR西日本の100系V編成、通称「グランドひかり」だ。先頭車両と最後部車両にモーターを付けることで、中間4両を2階建てとし、うち3両は2階をグリーン席として定員を拡大した。

 同時期にJR東海も100系を新造しているが、こちらは2階建て車両は2両のままながら、食堂車を廃止する代わりに1階にカフェテリアを設置し、2両とも2階はグリーン席とした。

 折しもバブル景気が到来し、ひかり号はグリーン席から座席が埋まったといわれる状況だった。2階建て車両の導入による定員増はこうしたニーズの受け皿となったのだ(なおJR東日本もこの頃、東北新幹線で運用していた200系車両に2階建て車両を組み込んでいる)。

 ところがバブル景気の影響は思わぬ形で新幹線に波及していく。1985年から1990年にかけて東京の住宅地1平方メートル当たりの平均地価は3倍近くになり、周辺3県でも地価は大幅に上昇。一般的な給与所得者が東京近郊に住宅を取得することは困難になり、通勤はどんどん遠距離化していく。

 そこで注目されたのが新幹線通勤であった。通勤手当の非課税限度額引き上げも追い風となり、1987年に1日当たり約1万人だった新幹線の定期利用者数は、1991年には約5万人にまで増加。バブルが崩壊しても引っ越すわけにはいかないので、利用者はそのまま増え続けた。

 そうなると通勤時間帯の混雑が問題となる。通勤電車であればともかく、特急料金を払って乗車する新幹線で着席できないのは不満が大きい。だが設備や人員などの問題もあり、すぐに運行本数を増やすわけにもいかない。そうなると1列車あたりの定員を増やすしかない。

 特に東北・上越新幹線は当時、東京駅のホームが1面しかない上、東京~大宮間の線路を共有するため、列車の増発が困難だった。そうしたニーズに応えるために開発されたのが初代MaxことE1系だった。