新生活が軌道に乗り始めた1994年の年明け、上司に呼ばれ、「君にはニューヨークに行ってもらう」と告げられた。

 後に経営者としての土台を創ることになるこのニューヨーク行きには、実は丸山さんが一枚かんでいたのだった。

◆プレイステーションとの出会い
◇人生最大のターニング・ポイント

「プレステの仕事さ。ちょっと手伝ってくんない?」そんな軽い口調でCBS・ソニーの丸山茂雄さんから電話がかかってきた。「ええ。いいですけど」とこんな返事をしたはずだ。これが会社員人生で最大のターニング・ポイントになった。

 プレイステーションは、ソニーが生んだ鬼才、久夛良木(くたらぎ)健さんが中心になって始めた新規事業だった。本来任天堂のスーパーファミコン向けに開発していたゲーム機だったが、いざこざがあり、任天堂から提携パートナーを解消された。そのため、ソニーは独自にゲーム機市場に参入する大きな賭けに出たのだった。

◇「おまえに任せたからな」

 米国でのプレイステーションのビジネスを軌道に乗せるには大きな問題があった。現地拠点、SCEA(SCE〈ソニー・コンピュータエンタテインメント〉の米国法人)の経営だ。

 なにより指揮系統がバラバラ。さらにはロゴを米国で勝手に作ったり、独自のイメージ戦略を打ち出そうとしたり、経営陣も次々と入れ替わり、混乱を極めていたのだ。

 そんな中、SCEAの会長も兼任していた丸山さんから「俺は疲れたから、おまえが社長をやってくれ」と告げられた。35歳のときだ。東京では係長レベル。そもそもSCEではなく、ソニーミュージックの社員だったにもかかわらずだ。

「おまえに任せたからな」という丸山さんの期待に応えたい。丸山さんは著者の心のスイッチを押してくれた。方向性を決め、決めたことに責任を取ることがリーダーに必要な資質だと考えているのは、まさにこの時、丸山さんに教えられたことだからだ。

◇リーダーとして最もつらい仕事

 事態は思ったよりも深刻だった。組織が機能していないどころか泥沼の状態だった。度が過ぎた足を引っ張り合うような競争意識がはびこっていたのである。

 リーダーとして最もつらい仕事の一つが「卒業」の宣告だ。著者が貫いたポリシーは、直接会って一対一で卒業を促すことだった。