ジャカルタでそのピアニストに出会ったのは、飛行機に乗り遅れたからだ。予定していた便に間に合わなかったのは、金曜の夕方にゴールデントライアングルのホテルから空港に向かおうとしたためだ。
だからこの話は、ゴールデントライアングとはいったい何か、というところから始めなくてはならない。ピアニストが登場するまでずいぶんと回り道になるが、しばしおつき合い願いたい。
ジャカルタの旧市街地
インドネシアの首都ジャカルタ北部のコタ地区は植民地時代にバタビアと呼ばれ、中国とインドを結ぶ海上交通の要衝として、17世紀には東南アジア最大の国際都市だった。オランダ人は街を城壁で囲み、その内側に運河を巡らせ、故郷アムステルダムを模した石造りの街並みを築いた。
何年か前、ジャカルタを訪ねた折に思い立って旧バタビアを見に行ったことがある。
タクシーの運転手に行き先を告げると、「なんでそんなことろに行くんだ?」と怪訝そうに訊かれた。「ただの観光だよ」とこたえると、勝手にしろ、というように肩をすくめた。
チャイナタウンにあるコタ駅から港に向かって歩くと、タクシーの運転手がなにをいいたかったのかすぐにわかった。
ギリシア風の壮麗な円柱が目を引く旧市庁舎から、ゴッホの絵画に出てくるような跳ね橋を渡り、東インド会社の倉庫跡を通りすぎて、港に面した魚市場まで足を延ばす。これが定番の観光コースだが、いまは観光客の姿を目にすることはめったにない。旧市街全体が巨大なスラムに飲みこまれてしまったからだ。
往時には各国の商船が停泊した港は無数のビニール袋が浮かぶゴミ捨て場と化し、どす黒い水が流れる運河からはメタンガスの泡が噴き出していた。橋の下には色とりどりのハンモックが吊られ、半裸の男たちが午睡をむさぼっている。
路上に敷かれたビニールシートには、安物の衣類やニセブランド品のほか、空のペットボトルや缶ジュースのプルトップなど、なにに使うのかわからないガラクタが並べられている。ホテルはかろうじて営業していたが、その向かいの石造りのレストランは廃墟と化し、建物のなかまでスラムが侵食していた。
人口1500万人を超える巨大都市ジャカルタの中心は、スラムに押されるように、南へと移動しつづけている。
大統領官邸や最高裁判所などの行政施設があるのは旧バタビアから南に5キロほど下ったムルディカ広場の周辺で、独立記念塔やモスク、カテドラルなどの観光名所もこの近くに集まっている。ジャラン・ジャクサという繁華街もあるが、ここは以前はバックパッカー向けの安宿街で、今は地元のひとたち相手の商店や飲食店が並んでいる。

現在のジャカルタの中心は、そこから大通り(ジャラン・タムリン)をさらに南に下った一帯で、高速と幹線道路が三角形をつくっているため、「黄金の三角地帯(ゴールデントライアングル)」と呼ばれている。高級ホテルや外資系企業の入居する高層ビルが林立する“変貌するジャカルタ”の象徴で、今回の旅ではその中心にある米系ホテルに泊まることにした。

このホテルは2009年7月にイスラム過激派のテロの標的となり、死者9名と50人以上の負傷者が出た。そのためセキュリティはきわめて厳しく、車はトランクだけでなくエンジンルームや運転席のグローブボックスまで調べられ、ホテルの入口には空港と同じ金属探知機が備えつけられている。
ホテルの周辺には高級コンドミニアムが集まっていて、スターバックスなどのカフェのほか、レストランやパブもある。インドネシアはイスラム国家ではないものの、一般のレストランは酒類を出さないのがふつうだが、ここは別世界で、ビールやワイン、ウイスキーやカクテルなど、ありとあらゆるアルコールが供され、週末の夜は予約がなければ入れないほどの大人気だ。

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<執筆・ 橘 玲(たちばな あきら)>
作家。「海外投資を楽しむ会」創設メンバーのひとり。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。「新世紀の資本論」と評された『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ベストセラーに。著書に『黄金の扉を開ける賢者の海外投資術 究極の資産運用編』『黄金の扉を開ける賢者の海外投資術 至高の銀行・証券編』(以上ダイヤモンド社)などがある。ザイ・オンラインとの共同サイト『橘玲の海外投資の歩き方』にて、お金、投資についての考え方を連載中。
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