橘玲の日々刻々 2021年10月21日

衆院選前にあえて考える、
「政治的無知」が大多数の現実と民主制(民主主義)が抱える問題点
【橘玲の日々刻々】

 自民党新総裁に岸田文雄氏が選出され、10月31日投開票の衆院選が公示された。誰に投票しようか悩んでいるひとも多いだろう。そこで今回は、イリヤ・ソミン『民主主義と政治的無知 小さな政府の方が賢い理由』(信山社)を紹介したい。

 ソミンは1973年に旧ソ連のサンクトベルクに生まれ、アメリカで高等教育を受け、現在はジョージ・メイソン大学ロースクール教授。政府の権限の最小化を求めるリバタリアン(自由原理主義者)で、本書でも有権者の「政治的無知」によって民主政(デモクラシー)が理想とかけ離れていることが雄弁に語られる。

 とはいえ、ソミンの目的は民主政を否定することではない。逆に、「ソヴィエト連邦から合衆国への移民として――共産主義とナチズムの両方の被害者たちを親類に持つ者として――私は独裁政にまさる民主政の長所を痛いほど感じている」として、「民主政の権力がもっと厳しく制限されているならばその機能はよりよくなるという可能性は残っている」と述べる。

 原著は2013年刊で、オバマ政権での医療保険制度改革(オバマケア)が政治問題化し、民主党・共和党の分極化が進んでいく時期にあたる。

Photo : lightsource / PIXTA(ピクスタ)

日本人の約3分の2は政府の14の省庁の名前を半分もあげられない「政治的無知」

 「政治的無知」の調査はアメリカで詳細に行なわれていて、それによると、平均的なアメリカ人は大統領が誰かは知っているが、それ以外の知識はきわめて心もとない。

 オバマ政権発足後の重要な政治イベントである2010年の中間選挙では、最大の争点は経済だったが、有権者の3分の2は前年に経済が成長したのか縮小したのか知らなかった。しかもその選挙が終わった後、アメリカ人の過半数は、共和党が下院を支配したが上院は支配しなかったということを知らなかった。

 こうした政治的無知は枚挙にいとまがないが、「アメリカ人はバカだなあ」と笑っているわけにはいかない。2014年の国際調査では、平均的な日本の回答者は失業率を大幅に過大評価し、殺人件数が減少ではなく増加していると誤解し、移民の割合を実際より5倍も多いと信じていた。さらに、日本人の約3分の2は政府の14の省庁の名前を半分もあげられず、大半は自分の選挙区の国会議員立候補者についてほとんど知識をもっていない。

 今回の衆院選は「安倍・菅政治の総括」がテーマだそうだが、「アベノミクスの3本の矢は何か」と訊かれて、「金融緩和(デフレ脱却)、財政政策(経済対策)、規制緩和(成長戦略)」と答えられるだろうか。それ以外ではTPP(環太平洋パートナーシップ)協定や働き方改革、普天間基地移設問題、スパイ防止法案、安保法制などが大きな政治的争点になったが、ちゃんと説明できるひとがどのくらいいるだろうか(すくなくとも私はまったく自信がない)。

 プラトンは『ゴルギアス』で、「民主政は無知な大衆の意見に基づいていて、哲学者やその他の専門家のよりよい知識に基づく勧告を無視するから欠陥がある」と述べた。アリストテレスはもう少し好意的で、市民が個人としてほとんど知識をもっていないとしても、集団としてはずっとたくさんの知識を得られるという「集団的知性(集合知)」に気づいていた。だがそれにもかかわらず、アリストテレスは、「女性や奴隷や肉体労働者や、その他にも徳と政治的知識を十分なレベルまで得る能力がないと彼がみなした人々を政治への参加から排除すべきだ」と主張した。

 自由主義者のジョン・スチュアート・ミルは民主政を擁護したが、それでも無知な有権者の体系的な誤りを是正するため、「よい教育を受けて知識を持っている人々に余分の票を与えることが正当化される」と考えていた。

 20世紀になると、政治的無知を理由に、左右両極でプラトン的なエリート主義が復活した。

 レーニンは「労働者が自分たち自身で社会主義革命を起こす十分な政治的知識を開発させるとは期待できない」として、「共産主義への移行のためには、労働者自身よりも労働者階級の政治的利益を理解しているメンバーからなる「前衛」政党による強力な指導が必要だ」と論じた。

 ヒトラーは、「有権者は愚かでたやすく操作でき、この問題は遠くを見通せる指導者が率いる独裁によってしか解決できない」として、『我が闘争』で「大衆が知識を受け入れる能力はごく限られており、彼らの知性は小さいが、彼らの忘却力は巨大である」と書いた。

 だがソミンは、有権者(市民)が政治的に無知なのはバカだからだと主張するのではない。逆に、ひとびとは合理的に選択・行動しているのであり、それによって賢い者も「合理的無知」になるのだという。

もっとも合理的なのは、政治的知識を獲得するための努力をほとんどせずに、適当に投票して安心すること

 アメリカでは1930年代後半にはじめて選挙民の政治的知識の調査が行なわれたが、それ以降、有権者の知識レベルはほとんど向上していない。その間の80数年で教育水準は大幅に上がり、メディアから得られる政治情報が爆発的に増えたにもかかわらず、政治的無知のレベルは相対的に固定したままなのだ。

 この事実は、一般に思われているように、教育の不足や正確な情報が提供されないことが政治的無知の理由ではないことを示している。

 誰もが気づいているだろうが、国政選挙では1票の価値はほぼゼロに等しい。アメリカ大統領選の場合、自分の1票が当落に影響を及ぼす確率は小さな州では1000万分の1、カリフォルニアのような大きな州では10億分の1で、平均すると6000万分の1とされる。日本は議院内閣制で計算はより複雑だが、自分の1票で当選した候補者の政党が(連立を含めて)政権をとる確率は、せいぜい数百万分の一だろう。

 経済学がいうように人間が経済合理的に行動するのなら、なんの価値もないことにコストをかけるわけがないから、そもそも投票所に行くはずがない。だが実際には、日本の場合1990年までは国政選挙の投票率は7割程度を維持していて、それ以降はかなり下がったものの、それでも有権者の半分は投票に行っている。2020年の米大統領選は66%で、「120年ぶりの高投票率」と報じられた。

 このことは、「合理的経済人」という経済学の前提が誤っている例としてよく挙げられるが、ソミンは、有権者の行動は経済学的に説明可能だとする。

 民主的な社会では、選挙権を行使することが「市民としての義務」だとされる。社会人になれば(あるいは大学生でも)「選挙に行った?」と訊かれる機会は増える。

 もちろん、行ってないのに「行きました」と答えることはできるが、ウソをつくのは気分が悪いだろう。だったら、投票してすっきりしたいと思わないだろうか。

 日曜に出かけるついでに近所の投票所に立ち寄るだけなら、じつはコストはそれほど大きくない。同調圧力に対処するためにささやかな負担をするひとが半分いることは、不思議でも何でもない。

 だとしたら、真のコストはどこにあるのか。それは、候補者の詳細な情報を入手・検討し、誰に投票するかを決めることだ。

 正しい投票のためには、自分がどのような政治を望んでいて、それに対して現状がどれほどかけ離れていて(あるいはうまくいっていて)、各候補者が掲げる政策がどのような影響を与えるのかを知る必要がある。(ほとんど)無意味なことに、こんな面倒なことをするひとがいるだろうか(すくなくとも私はやらない)。有権者にとってもっとも合理的なのは、投票に行かないことではなく、政治的知識を獲得するための努力をほとんど(あるいはまったく)せずに、適当に投票して安心することなのだ。――なぜなら、自分の一票の影響力はほぼゼロだから。

 ここからソミンは、「もっと十分な情報を持った有権者になろうという目的で広範な政治的知識を獲得することは、大部分の場合、単純に不合理」だという。

 汚染物質をコストゼロで排出できるならば、企業にとっての合理的行動は公害を垂れ流すことになる。経済学ではこれを「負の外部性」というが、政治的無知はこれと同じで、有権者の合理的行動から生まれる「民主的プロセスの一種の「公害(汚染)」」なのだ。


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