文体というノイズによって物事の本質が見えにくくなっている

 ここでおじさん構文の話に戻ろう。

 はんつ遠藤氏の件も、おじさん構文それ自体よりも、セクハラや中傷という深刻な事案に対して、軽口で上滑りした文体を用いたことが批判されたと考えるべきだろう。しかし、問われていたのはセクハラなどの事実の有無。それなのに、おじさん構文ばかり注目され、ハレーションが起きてネタとして消費されてしまった。
 
 エモ文体やおじさん構文に共通するのは、文章の骨子、本質を覆い隠し、見えにくくする点だ。

 文章に装飾やエフェクトがあまりに多く、いったん脳内で訳してから、内容の問題点を指摘しなければならない。装飾を身ぐるみはがして平易な文章にすると、倫理的に問題のある内容だったりするのに、独特の表現によって深刻さがかき消されるのだ。

 先にあげた島田氏の文章も、平易でプレーンな文体であれば、最初からスラムツーリズム(貧困地区の訪問を伴う観光の一種)やジェントリフィケーション(街の再開発などによって貧困層が居場所を失う現象)への指摘・批判がなされたはずだ。しかし文体によって骨子がぼんやりと隠され、一見いい話に聞こえてしまい、問題点を認識できない人が一定数いたことも、エモ文体の効能といえそうだ。
 
 改めておじさん構文とエモ文体の共通点をまとめよう。
 
(1)文章の骨子、本質をぼかし、見えにくくする
(2)装飾が多く、批判の前に通訳が必要
(3)冗長で読者をふるい落とす
(4)文体への批判で論点がそれる

 
 エモ文体への指摘で、「葬式にジーンズで参列しているよう」というものがあり、言い得て妙だと感じた。真面目なテーマと癖の強いおじさん構文やエモ文体は「混ぜるな危険」といったところだ。

 ただし、あくまで扱う内容の深刻さが炎上した一番の要因であり、深刻な内容の上に自分語りエフェクトをかけていることで、火に油を注いだ格好といえそうだ。

 おじさん構文にしろエモ文体にしろ、賛否両論はあれど人の目を引きつけるのは事実。しかし、文体がつつみ隠す内容については、今後も注視していきたい。