翻訳業界で横行する
「やりがい搾取」とは

 参考までに、ベテラン翻訳者のYさんに1日に可能な翻訳量を伺ってみると、日本語が原文の場合は3000文字くらいだそうだ。得意な分野でも4000文字程度が限界で、それ以上になると、読み返しや調べものの時間がとれず、納得のいく納品ができなくなると教えてくれた。

 先の「新型コロナウィルス感染症関連情報翻訳業務」の入札価格1文字4.8円で計算すると、30年のベテランでも1日3000文字で1万4400円ということである。しかし、最近では文字量を無視し、「A4用紙1ページ1万円で」という依頼も珍しくないそうだ。

「翻訳という仕事が低価格なのは、機械翻訳の精度が良くなったせいでもありますが『あなたが好きなことを仕事として渡しているのだから、低価格でも大丈夫でしょ』というような、発注側にある『やりがい搾取』の意識というのもあるんです」とYさんは語る。

 ギャラの交渉の材料として低価格な機械翻訳を提示する発注者も少なくないという。フリーランスの人材も多い業界だけに、それでも仕事を受ける翻訳者もいるし、不当労働として訴えることもできない構造になっている。会社にとって無駄な経費をかけないというのは必要なことではあるが、請負側にブラックな仕事を押し付けるのとは本質が違う。

 日本語は、主語や動詞、述語など関係性が不明確な文章や独特の表現が多く、多言語への翻訳は翻訳者のスキルが求められる。多言語から日本語への翻訳も同様だ。そんなプロのスキルを安値で買いたたいていけば、翻訳の未来を担う人材は育たないだろう。そうなると、困るのは結局、質の高い翻訳を必要とする側なのだ。

 試しに私が、日常的に使われる日本語である「ひとつ、よろしく」というフレーズを機械で翻訳してみると「One、Please」となった。このような、日本語特有のあいさつなのか? それとも何かを1つオーダーしているのか? という文脈で判断しなければならない翻訳は、やはり人の目でしか完了しかない。

 機械翻訳をうまく使いこなすためにも、プロを育てる環境を翻訳業界全体で見直していかなければ、日本はいつまでたっても“変な外国語が大事な場面でもあふれる国”のままだろう。

(まついきみこ@子どもの本と教育環境ジャーナリスト/5時から作家塾®)