日本社会も国民も、自ら後退する道を選んでいる

 我々はどうしても「人間は日々、成長している」という思い込みがある。失敗や挫折から学び、試行錯誤を繰り返して未来を切り拓くのが人間のあるべき姿なので当然、その集合体である社会も日々進歩していく、と信じて疑わない。今日より明日、今月より来月、今年より10年後は「もっとよくなっているはず」と捉えがちだ。

 だが、残念ながら、今回の「5万円クーポン問題」を見る限りそれは幻想だと言わざるを得ない。

 明らかに税金の無駄遣いであるということがわかっているのに、同じ過ちを10年、20年周期で繰り返す。学習能力がないというよりも、確信犯的に「効果の乏しい政策」を選んでいるのだ。

 選挙で「国民のために」を絶叫する人々が、なぜこのような破滅の道を突き進むのかというと、政府や政党の「体制」を守ることが何をおいても優先されてしまうからだ。抜本的な改革に着手をしようと思っても、国会や選挙で世話になる公明党や支持団体に配慮せざるを得ないので結局、「現状維持」へと流れてしまう。だからどうしても、昔の政策を現代風にアレンジして再利用するパターンが多くなる。

 賃上げという話でも、「企業が潰れたら日本はおしまいだ!」という中小企業団体からのお叱りを受けて、中小企業支援や補助金に話が落ち着く、というパターンが何十年も繰り返されているのは、その典型だ。

「新しい資本主義」とか「経済安全保障」と何やら新しい感のある単語を並べられると、国民は「なんか新しいことするのかな?」と期待してしまうが、その中身をよくよく精査すれば、これまでのリバイバルであることは明らかだ。

「成長と分配」は安倍晋三元首相も演説でよく言っていたフレーズだし、「経済安全保障」も大平内閣(1979~1980)で唱えられた概念に、「中国の脅威」というスパイスを加えて、より「対米従属」を鮮明にさせただけである。

 もしかしたら、日本という国は、我々が気づかないうちに、ゆっくり、ゆっくりと後ろに進んでいるのかもしれない。

(ノンフィクションライター 窪田順生)