橘玲の日々刻々 2022年2月18日

"アカデミズムのサラブレッド"で新進気鋭の社会学者だった
アリス・ゴッフマンは、なぜ「キャンセル」されたのか?
【橘玲の日々刻々】

 エスノグラフィー(参与観察)は文化人類学や社会学で行なわれるフィールドワークの一種で、研究者が調査対象者と行動と共にし、同じ立場でさまざまな経験を記録する手法をいう。前回紹介したボストン大学の社会学者アシュリー・ミアーズは、元モデルという変わった経歴を活かして、ファッションモデルや有名クラブのVIPの世界に潜入してその実態を報告した。

[参考記事]
●ニューヨークの有名クラブで日々繰り広げられているアメリカの富裕層とエロス資本との深淵な関係とは?

 アリス・ゴッフマンは同じ社会学者で、エスノグラフィーの手法を使い、30代前半できわめて高い評価を受けた著作を発表した。ところがその後、この著作は「炎上」し、彼女は「キャンセル」されてしまう。

 キャンセルカルチャーは、PC(政治的正しさ)の基準に反した者を糾弾し、社会的な地位を抹消(キャンセル)する左派(レフト)の運動で、東京オリンピック開会式をめぐる一連の騒動を見ればわかるように、その標的になるのは性差別、いじめ、人種差別などをした(と見なされる)者だ。

 ところがこのケースでは、アリス・ゴッフマンはきわめてリベラルな主張をしたにもかかわらず、キャンセルの嵐に見舞われることになった。その著作は2014年の“On the Run: Fugitive Life in an American City(オン・ザ・ラン あるアメリカの都市の逃亡生活)”で、21年に『逃亡者の社会学 アメリカの都市に生きる黒人たち』(亜紀書房)として翻訳された。ちなみに“On the Run”は「逃亡中」の意味だ。

 ここでは私にわかる範囲で、いったい何が起きたのかを見てみたい。

アリスはアカデミズムの世界のサラブレッド

TEDで語るアリス・ゴッフマン(2015年3月)

 その特徴ある姓で気づいたかもしれないが、アリス・ゴッフマンは「20世紀のアメリカでもっとも重要な社会学者の一人」とされるアーヴィング・ゴッフマンの娘だ。

 アーヴィングは1922年にカナダで生まれ、30歳で結婚して男の子をもうけたあと、アメリカにわたって社会学者として成功し、第73代のアメリカ社会学会会長に選出された。81年に社会言語学者のジリアン・サンコフと再婚し、翌年、アリスが生まれたが、同じ年に胃がんのため60歳で死去した。

 ここからわかるように、アリス・ゴッフマン(アーヴィング・ゴッフマンと区別するために、以下、アリスとする)に父の記憶はまったくない。それにもかかわらず、実父と同じ社会学者を目指したのは興味深いが、ここではフロイト的な解釈は控えておこう。

 母のサンコフもアーヴィングとは再婚で、死別のあと、93年(アリスが11歳のとき)に言語学者のウィルアム・ラボフと三度目の結婚をしている。アリスの義父となるラボフも高名な学者で、ペンシルバニア大学の言語学研究所所長を務めていた。

 アリスは社会言語学者の両親によって、子どものときにフィラデルフィアのイタリア人家族に預けられ、そこで方言の収集をさせられていたという。その後、彼女は義父が務めるペンシルバニア大学で社会学の博士号を取ることになる。

 その家族歴から一目瞭然だが、アリスはアカデミズムの世界のサラブレッドだ。実父は誰もが知っている高名な社会学者で、義父は自分が所属する大学の実力者、母親も学者で、その将来にはわずかの障害物もないはずだった。のちの「炎上」の背景には、このあまりにも恵まれ過ぎた経歴がある。

 アリスがエスノグラフィーを手掛けるきっかけはペンシルバニア大学1年生のとき、「直接観察を通じて都市生活を研究する」という課題が学生に課されたことだった。アリスは最初、ダウンタウンにある自主制作映画のレンタル店で働こうとしたが、「映画をよく知らない」という理由で雇ってもらえず、大学内のカフェテリアで働きながら従業員(そのほとんどがフィラデルフィアの貧困地域から通う黒人)を参与観察することにした。

 レポートを書き終えたあと、アリスはカフェテリアのアルバイトを辞めたが、翌年の秋、そこを仕切っていた60代の黒人女性に「家庭教師を必要としているひとを知らないか」と問い合わせた。彼女は同居する娘(シングルマザー)の息子で高校1年生のレイと、息子の娘で、数ブロック離れたところでやはりシングルマザーの母親と暮らす高校1年生のアイシャという2人の孫を紹介した。こうしてアリスは、週に2~3回、ダウンタウンにある黒人居住区に家庭教師として通うようになった。

 これを機にアリスは、本格的にフィラデルフィアの労働者階級の黒人たちの生活を調査することに決め、黒人地区にアパートを借りて引っ越した(地元の不動産業者は白人には貸してくれなかったため、アイシャの姉が代わりに交渉した)。その後、アイシャの14歳のいとこロニーが少年院から戻ってくると、「6番街」と名づけられた地区のストリートボーイズと知り合うようになる。彼らのリーダー格が22歳のマイクで、映画館でいちどグループデートをしたあと、アリスの面倒を見るようになる。

 このときアリスは21歳で、後日、2人の関係が問題になるが、マイクは自分の物語を白人の学者に書いてもらうために、打算と興味、そして友情によってアリスを迎え入れたのだとされている。実際、アリスは身長157センチで、40代を迎えた現在の写真でも少女のように見えるので、女に不自由していなかったマイクにとって性的な対象にはなり得なかったという説明を疑う理由はない。

 こうしてアリスは、黒人のストリートボーイズたちと「つるみ」ながら、6年にわたって彼らの生活を膨大なフィールドノートに記録することになる。その作業のなかで彼女が発見したキーワードが「逃亡」だ。


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