ポランニーはまた、他人には見えない問題を感じ、自分自身の責任においてそれを探究する能力を持つ者を重視することは、自由でダイナミックな社会における知的生活を守る必要な原理だとも考えている。ポランニーは、このような人たちが作る社会を「探究者の社会」と呼ぶ。

 そして「探究者の社会」では、科学的価値として厳密性や信頼性、科学的体系の構造の修正と拡張、そして主題の興趣=重要性(面白いかどうか)が重視される。この世界では、科学的観点からその確からしさについて厳しい権威的な審判が行われるものの、異説を認めるだけでなく、創造的異説に対して最大限の激励を惜しまない。想像力を基に創造的発見をしようとする人を、心から称賛する社会である。

真実と思われているものの
嘘が暴かれる「探究者の社会」

 そして幸いなことに、我々は今「探究者の社会」に突入しようとしているのである。言語と書物によって理解=包括の範囲を桁外れに拡げてきた人類は、デジタル化の進展で「桁外れ×桁外れ×桁外れ(三乗)」くらいのデータを活用できる時代に入っているのである。特にこれまで全く獲得できなかった、人間同士のコミュニケーションや購買行動のデータが無尽蔵にある。そのデータの中には、当然のことながらこれまでは誰も発見できなかった首尾一貫した秩序や法則性が、数限りなく見つかることであろう。

 因習に凝り固まった為政者のいかにもそれらしい理論、成功のセオリーということになっていた経営者の真っ赤な嘘――特に人間の行動とその結果との因果性については、これまでは再現性がなく実験できなかったために、今なお多くの捏造ストーリーが価値あるものとして尊重されている。

 それらのうち、皆が価値あるものと信じているがゆえに、(現在は)実際に有効性を持つ法則もある(たとえば、かつては「有事のドル」は健在であった。市場関係者がそれを有効として考えるはずだと市場関係者が考えたからだ)。しかしながら、今後活用できる各種のデータを前に、数限りない人が暗黙知を働かせ、発見するであろう数々の新法則によって、多くはその正当性を否定されるだろう。

 血を抜けば病気が治る、やかんの魔法の水、うさぎ跳びは足腰を強くする――。これらは、言われた当時は正しいと信じられていたものの、その後、間違いであったことが判明した例だが、こうしたことは歴史の常である。今までメディアなどで成功法則を声高に語ってきた人のうち、かなりの人(筆者を含む)は窮地に立たされることになるだろう。