スタンフォード大学の社会心理学者ジェニファー・エバーハートは、黒人女性である自らの体験をもとに人種にもとづくバイアスを研究し、それを『無意識のバイアス』(明石書店)にまとめた。原題は“ Biased(偏って)”で、アメリカ社会で、黒人がネガティブなステレオタイプ=人種バイアスの対象になっていることを表わしているのだろう。
とはいえ、エバーハートは人種差別を糾弾するSJW(社会正義の闘士:social justice warrior)というわけではない。彼女はサンフランシスコの対岸にあるオークランド警察署の啓発活動に協力していて、「警察署員の多くは毎日その正義を、時には大きな犠牲を払って実行していると感じていた」と評価している。それにもかかわらず、警察官は人種差別的な職務質問や身体検査を行なっているとして、「BLM=ブラック・ライブズ・マター(黒人の生命も大切だ)」の運動で「人種主義者(レイシスト)」のレッテルを貼られることになった。その理由は「潜在的なバイアスが人間の意思決定に作用する」からだとされるが、本書を読むと、これは想像以上にやっかいな事態だとわかる。
黒人に対する強い人種バイアスは、黒人警察官や、一般の黒人にも共有されている
オークランドはバイデン政権で副大統領になったカマラ・ハリスの出生地で、1960年代以降、犯罪率が上昇し、全米でも屈指の「犯罪都市」となった。とりわけ1990年代にはかつてないほど凶悪犯罪が多発し、その多くは麻薬取引に関連していた。
市民からの強い圧力を受けた警察当局は、疑わしい者を片っ端から逮捕するようになり、より多くの容疑者を刑務所に送った警察官に褒賞が与えられた。証言によると、点呼のときに上官は、「容赦なく行け。時にはルールを曲げなければならない」と部下たちを叱咤したという。
その結果、警察官たちは「ライダーズ」と名乗る自警団を組織し、無実の者に薬物を仕掛けたり、暴力を振るって自白させたり、犯罪行為をしたと偽って告発するようになった。この異常な事態は数年続いたあと、2000年に「恐怖の支配に従うことを拒んだ」新米警官によって暴かれ、大きなスキャンダルになった。オークランド警察は、市民の信頼を取り戻すためにエバーハートに助力を求めたのだ。
社会学者のアリス・ゴッフマンは、フィラデルフィアの貧困な黒人集住地区に住み、6年にわたってストリートボーイズたちとつるむことで、アメリカの司法・警察制度の罠に絡めとられ、「(指名手配からの)逃亡者」にされていく彼らの境遇を報告したが、それと同じことがオークランドではもっと大規模に起きていたのだ。

[参考記事]
●"アカデミズムのサラブレッド"で新進気鋭の社会学者だったアリス・ゴッフマンは、なぜ「キャンセル」されたのか?
この不祥事ののち、多くの警察官と直接、話をする機会をもったエバーハートは、「結局のところ、警察官は命を張っていることに対して評価されていると感じたいのだ。人々に尊敬される職業を選んだのだと実感したいのだ。そして、何より、彼らは自らの安全を確保しておきたいのである」と述べている。それがなぜ、「人種問題」へとこじれていくのだろうか。
オークランドの黒人住民のなかで、凶悪犯罪に手を染めているのは3%程度にすぎないという。それにもかかわらず、警察官は人種バイアスによって残りの97%も「犯罪者」のカテゴリーに入れてしまうため、住民からの反発が避けられない。その結果、「警察官は、犯罪との闘いに打ちのめされやすい。時間が経つにつれ、まるで自分たちが勝ち目のない戦争の歩兵であるかのように感じるようになる。尊敬も感謝もしてくれない人たちのために自分たちの命を懸けていることに不満を感じるようになる」という負の連鎖に陥っていく。
黒人に対する強い人種バイアスは、白人警察官だけでなく、黒人警察官や一般の黒人にも共有されている。オークランド警察署で行なった講演で、このことをエバーハートは、次のような印象的な逸話で説明している。
エバーハートが、当時、5歳だった息子のエヴェレットと飛行機に乗ったときのことだ。席に着いたエヴェレットは周りを見回したあと、たった一人の黒人男性の乗客を見つけて、「ねえ、あの人パパにそっくりだよ」といった。エバーハートが驚いたのは、その男性が夫にまったく似ていなかったからだ。身長も顔かたちもちがうし、なによりその男性は、長いドレッドヘアを背中まで伸ばしていた。エヴェレットの父親は坊主頭なのだ。
息子の次の言葉は、それよりさらに衝撃的だった。「あの男の人、飛行機を襲わないといいね」といったのだ。
「なんでそんなことを言ったの?」と声を低めて訊ねると、エヴェレットは母親を見上げ、悲しそうに「なんでそんなことを言ったのか分からない。なんでそんなことを考えていたのかも分からない」と答えた。
この講演のあと、一人の黒人警察官がエバーハートに声をかけた。潜入捜査をしていたとき、遠くにあやしい男を見つけたという。
その男は無精ひげを生やし、髪も乱れていて、服も破れていて、よからぬことを企んでいるように見えた。男が近づいてくると、警察官は、銃を所持しているのではないかと考えはじめた。
その男がいたビルに向かうと、一瞬、見失ってしまった。次に男を発見したとき、彼はオフィスビルのなかにいた。ガラス越しに男の姿がはっきり見えた。
警察官は、男と向き合う覚悟を決め、立ち止まってその目を見た。そのときはじめて、彼は自分自身を見つめていることに気づいたというのだ。
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