フィフス・石崎琴美を
「手ぶらでは返さない」

 泣きたいときに泣き、悔しがり、そして嬉しいときには最高の笑顔でたたえ合う。人生を共有し合えるかけがえのない仲間に、最後の一人、石崎琴美が20年9月に加わり、さまざまな個性が至高のハーモニーを奏でる理想的なチームへの第一歩が踏み出された。

 キャプテンおよびフィフスとして平昌五輪までを裏方として支えた本橋さんが、一般社団法人化されたロコ・ソラーレの代表理事に専念するために第一線を離れた。その本橋さんから熱く誘われた帯広市出身の石崎が、熟考した末に加入を決めた。

 02年ソルトレークシティー五輪に河西建設の、10年バンクーバー五輪にはチーム青森の一員として出場した石崎は、その後にチーム青森を離脱。日本が悲願のメダルを獲得したイギリスとの3位決定戦を含めて、平昌五輪ではテレビ解説を務めた。

 4人に故障などがない限り試合には出られないフィフスとして、石崎は濃密な経験を伝え、その日の全競技を終えた後には再びシートに向かい、翌日の試合で使われるストーンをチェック。曲がり方を含めて、それぞれのストーンの癖を確認し続けた。

 北京での戦いを支えてくれた石崎に報いたいと、スイスとの準決勝は「ことぶら」がロコ・ソラーレの合言葉になった。4人から「ことみちゃん」と呼ばれる石崎を手ぶらで日本には帰らせない、という決意が凝縮された略語だった。

 カーリング競技ではフィフスにもメダルが授与される。果たして、43歳1カ月の石崎は3度目の五輪で夢のメダルを手にして、スキージャンプのレジェンド、葛西紀明の41歳8カ月を抜いて、日本の冬季五輪史上で最年長のメダリストになった。

5人で勝ち取った銀メダルの原動力は
「世界一のコミュニケーション」

 夕梨花が鈴木へ、鈴木が知那美へ、知那美が藤澤へ、そして藤澤が石崎へと授与された銀メダルを順にかけていった表彰式。絆の強さを感じさせた光景そのままに、負けて手にした銀メダルを悔しがる4人に対して石崎は金言を授けている。

「この銀メダルは、ちゃんと喜んだほうがいいと思うよ」

 スイスとの1次リーグ最終戦で負けた直後には一時は敗退を覚悟して涙するなど、波乱万丈の軌跡を描いた今大会。最終日まで戦えた原動力は「世界一のコミュニケーションを見せられたからだよ」と説いた石崎の言葉で、4人は前を向くことができた。

 銀メダルの価値を未来につなげたいと思いを込めた藤澤は、笑顔を取り戻していた。

「オリンピックの金メダル獲得がもう夢ではなくて、日本のカーリング界全体の目標になる試合になったんじゃないかと。この悔しい思いを日本全体でカーリング界のレベルアップにつなげなきゃいけないし、つなげたいと思います」

 チーム名はローカルと“常呂っ子”から取った「ロコ」に、太陽を意味するイタリア語の「ソラーレ」を加えた造語だ。後者を象徴する彼女たちの愛らしい笑顔は快挙の原動力になり、これから自分たちが進んでいく道を、さらには日本全体を明るく照らす羅針盤になる。