広大な神農架に暮らす友人の生活

 1986年5月に、『ノーと言える中国』という本が発売された。初版の5万部はあっという間に売れ、国際的ベストセラーになった。古さんは、その複数いる著者の一人だ。

 この本に関心をもった私は、日本語に訳して日本経済新聞社に出版してもらったのだが、これがきっかけで、古さんと知り合った。過激な言動へ走りやすい他の執筆者と違い、穏やかな発言をする古さんは私が一目置く存在だった。

 古さんの茶園は神農架の紅挙村にある。この村は、昔に比べ人口が減って、いまや200あまりの世帯で800人ぐらいの村民を持つ一行政村に成り下がった。しかし、それでも、漆園、蓮花、蛟湾、陳家湾、三元、苦桃園、三道街など多くの自然村落を統轄していて、面積が98平方キロメートルもある。

 広大すぎて、村に山がどれほどあるのかも集計できず、原生林などが無数にある。海抜800メートルから2000メートルまで、人々は神農架の北斜面に散らばって住んでいるのだ。

 古さんの家は海抜1200メートルのところにある。数日前、海抜1700メートルに住む友達に「そちらの天気は」と尋ねたら、「雪が降った。あたり一面は真っ白になった」との回答が戻ってきた。「一つの村で、季節が違うということもよくある」と古さんは自慢する。

 古さんの家からすこし離れたところに、「百草沖」と呼ばれるところがある。そこは植物の種類が最も多い場所で、春や夏には、古さんはよく植物を撮りに行く。標高の低い北斜面は、野菊など植物の世界となっている。

 また、村を流れる小川があるのだが、その小さな水域は古さんが魚を観察する舞台となり、たくさんの喜びを与えてくれた存在でもある。今は水力発電所がある関係で、姿は変わってしまったが、かつては幅約50メートルもある大きな川だった。その時代は、川に大きな魚がいて、川の周辺では赤い米が収穫できる水稲を栽培していた。両岸には桃の木もあったそうだ。まさに桃源郷と言ってもおかしくないところだった。

 美しくも厳しい自然環境の中で、古さんが暮らすようになったのはなぜか。