三顧の礼で迎えられた銀行出身社長の化けの皮

 クーデターが成功した最大の要因は、武雄・宏之親子に気付かれることなく秘かに、昭夫が佃を手駒、つまり内通者として確保できたことにあるのではないだろうか。佃と昭夫が“天敵”の関係からクーデターの“盟友”と目される関係へ転じた経緯を見てみよう。

 佃がロッテHDの社長に就任したのは09年7月のことだ。それまで武雄はロッテ創業以来61年間にわたり社長職を務めており、佃に対する期待と信頼の大きさが表れている。佃に期待されたのは、野球にたとえれば、宏之を後継者とするための「セットアッパー(中継ぎ投手)」である。優勢の試合を抑えのクローザー(ストッパー)につなぐ役割である。当の佃もまた、「私は宏之氏をトップにするためにここに来た」と公言し、宏之の後継者就任までのワンポイントリリーフであることを自認していた。

 佃は、住友銀行(現・三井住友銀行)で専務まで上り詰め、01年にはロイヤルホテルに転じて社長、会長を務めた。武雄との出会いは、佃が住友銀行ロンドン支店長をしていた96年頃のことであったようだ。武雄が佃を気に入ったのは、ロッテが東京・葛西で計画していた大型プロジェクト「ロッテワールド東京」について意見を求めた際の対応だったという。「一駅先にはディズニーランドがありますし、お止めになったほうが良い」という佃の助言はありきたりのものだったが、すでに“神様”扱いされていた武雄に、物おじせずに率直に語る佃に対して武雄が好印象を持ったからとされる。

 だが、武雄の佃への大きな期待が剥げ落ちるのに時間はかからなかった。佃は社長就任後しばらくすると、菓子メーカーの経営を軽んじる言動をしばしばするようになり、「菓子メーカーとして堅実な経営を重んじてきたロッテの社長には不適格ではないか」と疑問視する人が徐々に増えていった。当然、それはすぐに武雄の耳に届く。

 例えば社長が海外出張の際、ロッテの海外支社の責任者は、主として現地での商品単価や売れ行きなど実務的な報告をするのが慣例だ。また武雄は、創業時から自ら自転車で駄菓子屋や小売店を回り、「店舗陳列=売り上げ」という泥臭い方針を貫いた。だから東南アジアなどでも営業部門には「現地のパパママショップをくまなくバイクでカバーしなさい」と指示していた。

 これに対して佃は、銀行の海外支店長はマクロ経済を語ることを引き合いに出したり、バイク巡回については「君たちはこんなことをやっていて大変だね。僕が海外にいるときには3000万円以下の案件はやらなかった」などと平気で口にする。創業者の経営方針も、現場で汗を流す仕事も小馬鹿にするような言動が現場の社員には、「上目線で自分たちを小馬鹿にする元銀行幹部の社長」と映っていたし、生涯を通じて現場主義を貫いた武雄が、佃の振る舞いを知ったときの怒りと失望は察するにあまりある。

 そんな佃を社長就任以来ずっと責め立ててきたのが、後に“盟友”となる昭夫だった。周囲には「佃を1年以内に追い出す」と宣言するほど嫌っていた。兄の強力な補佐役になる人物を早めに排除すべしと考えたのか、それとも兄に続いて日本事業を統括する立場の人物の台頭を警戒したのか、毛嫌いする理由は想像の域を出ない。

 いずれにせよ、昭夫の「佃いびり」は執拗だった。ロッテHDの代表取締役社長として佃が昭夫に事業を報告する場では、昭夫が日本の事業に関して「進捗が遅い」「日本はだめだ」などと佃を罵倒することがしばしばあった。ロッテグループの海外現地法人責任者が集まるグローバル戦略会議では、衆人環視の中で佃は昭夫から厳しく追及されたり、面目を潰されたりしたこともあった。佃は「二度と行かない」と周囲に漏らすなど、当時は「天敵」だと考えていたようだ。日本のロッテ社内では、佃が昭夫から責められると周囲への八つ当たりが激しくなるため、「昭夫さんの佃いびりも、もう少しなんとかならないのか」と佃ではなく、昭夫への怨嗟の声が漏れ聞こえていたほどだ。

 昭夫の攻撃は佃の社長就任から4年近くたっても続いていた。例えば13年1月の「事業報告」や「重光総括会長への業務報告」、つまり武雄が出席する“御前会議”の場での記録文書にも、昭夫が佃を責め立てるこんな文章が綴られている(一部を省略した)。

「業績悪化について、佃社長は『前任者の社長が無能なのでこうなってしまった』と言っていますが、そもそもその社長を任命した佃社長に責任はないのでしょうか」(事業報告書)

「私と色々な話をしているときでも、今だに(原文ママ)『私は菓子はしろうとで良く分かりません』と言う発言をされます。ロッテに来てから4年近くなるのに『しろうと』では勉強不足と言わざるを得ません。これからの業務報告の時には、商事、商品開発も佃社長を必ず出席させ、本人の自覚を促す必要があると考えます」(業務報告書)