中村俊輔の中の
松田直樹という存在

「松田選手が亡くなって最初の試合がレイソル戦。ボールも足も地についていない感じで、あんなに悲しい感じでプレーしたのは1試合だけですね。マツさんだったらいま、何を考えているかなとか、こういう状況でどうしてるかなとか考えるようになって。僕を変えようとしてくれた人なので」

 マリノス時代の2学年先輩で、代表でも何度もともに戦った松田直樹さん(享年34)が急死したのは11年8月4日だった。桐光学園高(神奈川)から加入し、一日24時間をサッカーで染めていた俊輔を、サッカー以外も知らなきゃダメだと、松田さんはいろいろなところへ連れていった。

 ピッチ外での濃い付き合いが引退会見での「僕を変えようとしてくれた人」というくだりに反映されている。いつしか兄貴分と慕う存在になった松田さんは10年限りでマリノスを退団。出場機会を求めてJ2の一つ下、日本フットボールリーグ(JFL)の松本山雅FCへ移籍し、J2参入へ向けてシーズンを戦っていた最中の8月2日の練習中に急性心筋梗塞で倒れてしまった。

 松田さんが倒れたという一報を受けた俊輔は、2日の練習後に自ら車を走らせて長野県松本市内の病院に向かった。病魔と闘う松田さんへエールを送った俊輔は、ほとんど一睡もせずに翌3日午前に行われたマリノスの練習へ普通に参加。プロとして、キャプテンとして休むわけにはいかなかった。

 さらに4日の練習後にも、Tシャツに短パン姿のまま松本市へ急いだ。訃報が届いたのはその車中だった。その夜。マリノスOBらとともに、松本市内にあった故人のマンションを訪ねた。

 壁には松田さんの直筆で「努力」と記された紙が貼られていた。テレビの上に無造作に置いてあったDVDには、マリノス時代の松田さんの好プレー場面が編集された映像が収められていた。34歳にあっても向上心を忘れず、16年間在籍したマリノスから戦力外を通告されてもトリコロールのユニホームへ変わらぬ愛を抱いていた松田さんの生きざまに、俊輔は涙をこらえ切れなかった。

 悲しみのどん底に突き落とされてから2日後に迎えた柏戦を、筆者も日立柏サッカー場で取材している。当時の木村和司監督へ、負けている状況で俊輔を交代させた意図が問われた。

「本当に迷った。悪いな、と思って。気持ちも入っていたし、最後まで引っ張ったけど、気持ちが前へ、前へと出すぎていた。その影響でけがが怖かった、というのもある」

 俊輔がもらったイエローカードは、柏の攻撃を差配するMFレアンドロ・ドミンゲスへ見舞った激しいタックルが対象になっていた。後半終了間際にも別の選手のドリブルを引きずり倒すように止め、2枚目のイエローカードと退場を求めるブーイングを柏サポーターから受けた。

 俊輔は柏戦後に、目の前に松田さんがいたら、という質問にこんな言葉を残している。

「こんな大一番で結果を残せなくて『ダセえ!』とか『弱っ!』とか言われそう」

 睡眠不足がダメージを与えた肉体的なコンディション。何よりも心に深く刻まれたショック。柏戦に臨んだ俊輔は、心身両面でどん底の状態にあった。だからこそ、最も印象に残っている試合として、引退会見の場であえて明かした。俊輔はこんな言葉も会見で残している。

「日本の代表としてW杯に出るのは目標だったし、誇りでした。結果的には両大会とも結果を出せずに終わってしまったけど、自分の力のなさを気づく場所や時があった。なので、また次へ向上意欲を持てるというか、目標を立て直せたというのが自分のサッカー人生だった。良いこともあれば悪いことや挫折もある。それらを繰り返すたびに、ちょっとずつ上にあがれたのかな、と」