鴻上 なるほど。僕のフィールドである劇団という集団で考えてみると、一番周りから能力が低いと評価されている人が、伸び伸びと生きられているかどうかが、その劇団の集団としての健全さの目安だと僕は思っています。30人の集団がいれば、一人くらいは遅刻の常習犯だったり、作業を頼んでもできなかったり、必ずオーダーを間違えてしまう人がいる。そういう人達がプレッシャーを受けていられなくなる集団は、とても息苦しい集団だと言えます。
中野 でも、そんなに集団が大事なら、どうして人間にはそれに反するように、個人に強い意志や意識があるのか不思議なんですよね。
鴻上 集団に奉仕するためだったら、個人の意志なんていらないんじゃないかということですか?
中野 いえ、個人の意志を否定したいのではなくて、なぜ真社会性にならないんだろう?という単純な興味です。まあ効率重視なら真社会性ですよね。蟻や蜂と同じ。でも人間は個人の自由に価値を重く置いていたりする。それなのに、みんなのためにと思って個人の意志を時には潰したりもしていて、その間を揺れ動いている不完全な社会性が面白く見えるんです。一貫性を求めるわりには、柔軟に対応しろと言われることもあって、コミュニケーションを介して個体同士が複雑に絡み合っているように見えます。
そもそも、私は「どうして人と同じような振る舞いができないの?」と言われたり、「変わってるね」と言われたりして、集団になじめないところがあったんですが、自分自身はあまり変わったところはなく、凡庸な人間だと思うんです。
鴻上 変わっていることと凡庸はイコールではないんじゃないですか。「変わってる」ということは、他人の言葉の受け取り方が変だということで、変わっていて凡庸じゃない人と、変わっていて凡庸な人がいる気がします。
日本人がコミュニケーションに悩む脳科学的な理由とは
中野 おそらく一般的な意見の受け取り方が、私は下手くそなんですよね。でも私みたいに受け取り方が下手なほうが、なぜかコミュニケーションに悩まずにいられて、受け取り方が上手な人のほうがめちゃくちゃ巻き込まれて、大変な思いをして悩んでいる。むしろ受け取れない側からすると、悩んでいることがうらやましい感じさえします。
鴻上 脳科学的には、日本人がコミュニケーションに悩むというのは、どういった分析になりますか?