京都の佐川急便が
ライカのカメラきっかけで大成功

 理由の一つは、UPSが個人宅の宅配に本腰を入れるのは、米国でネット通販が台頭する90年代以降のことだからだ。小倉がマンハッタンで目にしたUPSの車両は、企業間(BtoB)の宅配荷物を運送していた。そのトラックを見て、個人間(CtoC)の宅急便の成功を確信するという論理には飛躍がある。

 二つ目の理由は、ヤマト運輸の本社から1万キロメートルも離れたニューヨークでの商業用の小口配送を参考にするまでもなく、わずか400キロも離れていない京都に本社を置く佐川急便が商業用の小口配送ですでに大成功を収めていたからだ。

 佐川急便(現SGホールディングス)の創業者は佐川清。

 新潟の旧家の長男に生まれたが、家族仲が悪かったので、中学校を卒業後に家出。それから職を転々とする。たった1人で飛脚業を始めるのは1957年。35歳の時だった。

 資本金もない、従業員もいない。裸一貫で創業した佐川清は、守備範囲を自分の住まいのある京都から大阪の間と決めた。

「飛脚の佐川です。ご注文いただけませんか」

 問屋に飛び込みで注文を取りにまわった。最初の注文は、大阪の問屋からの依頼。ライカ型の国産カメラ10台を京都のカメラ屋にまで届けてほしい、というもの。

 このときのことを佐川清はこう書き残している。

「ライカ型国産カメラは、当時で1台5万円した。10台といえば50万円である。/大学の初任給が1万円の大台に乗った、と騒がれていたころの50万円である。サラリーマンの年収の4倍以上の商品を、保証金も取らずに私に託そうというのである。(中略)10台のカメラは私にとって、単なる商品ではなかった。私は10台のカメラを押しいただいて、京都・河原町にあるカメラ屋に届けたのである」(『ふりむけば年商三千億』)

 トラックさえ持っていなかった当時、荷物をかついで大阪駅から京都駅までは国鉄(現JR)を使い、駅からは徒歩で移動した。

 これが、日本で宅配便が生まれた瞬間だ。