三権分立で司法には手を出せないはずの自民党政権が「裁判所を統制せよ」という圧力を高めた。石田はその政治的圧力に裁判所が屈するのを防ぐため、最高裁自らが青法協裁判官部会に圧力をかけることで司法の「自浄作用」として政治に示して見せ、介入を防ぎ、その意味では「裁判官の独立」を守ったのである。

 石田和外は最高裁裁判官を保守派で固める一方で、四大公害訴訟(新潟水俣病、四日市ぜんそく、イタイイタイ病、熊本水俣病)に「無過失責任」という新しい概念を導入することで、被害の立証が至難である被害者側の訴えを認める大きな転換を行うなど、政界、経済界には不利な判決も、そして尊属殺についても、司法の画期といえる実績を残している。しかしその代償としても、「ブルー・パージ」は苛烈なものだった。

「ブルー・パージ」の実態は、再任拒否と任地差別

 ブルー・パージの生贄(いけにえ)となった「青年法律家協会」(青法協)は、終戦の1945(昭和20)年、当時若手の有力法律学者によって研究団体として設立されたもので、「弁護士・学者合同部会」「裁判官部会」「司法修習生部会」があった。裁判官部会以外は、「法科大学院生部会」を加えて、現在も存続している。

 青法協裁判官部会は他の部会と一線を画し、リベラルではあったが、弁護士・学者部会が持つ左翼的イデオロギーは薄く、もっぱら裁判官の独立や裁判の研究など実務研究グループというのが実態だった。その証拠に、全裁判官の一割が所属していたメジャーな団体だったのである。それが突然、問題視されることになったのだ。