青法協裁判官部会を脱退せよ、さもなくば……

「青法協を脱退せよ」という圧力は、まず最高裁事務総局の局付判事補に加えられた。そう、朋一は「勉強会を抜けよ」と強要されたのを断ったため、家裁に転勤を命じられたのである。

 実際には、青法協会員だった事務総局の判事補10人全員が、青法協に脱退届の内容証明郵便を送りつけた。ここから、「青法協脱退ラッシュ」が始まる。

 最高裁が次に狙ったのが「再任」である。「青法協を脱退しない裁判官は再任されない」と先輩裁判官や所長が若い裁判官たちを脅したのだ。まずターゲットになったのが熊本地裁の宮本康昭判事補だった。1971(昭和46)年、理由を示さずに10年目の再任を最高裁から宮本判事補は拒否された。このことは、全国の若い裁判官に大きなショックと底の知れない恐怖感を与えた。

 熊本の隣、宮崎地裁延岡支部に、井垣康弘という判事補がいた。大阪・飛田新地の漢方薬屋の息子で、家業が傾く中、京都大学に入学、司法試験に一浪して合格。1967(昭和42)年に判事補になり、70年に初任の大阪地裁から転勤してきたばかりだった。

 大阪地裁は当時、リベラル派裁判官が集まっており、裁判官会議の自治性が強かった。裁判官の投票で所長を選ぼう、そこまで若い裁判官たちは盛り上がっていた。青法協に入ったばかりでもあった井垣判事補は、賛成の立場から積極的に発言して、場をリードしていた。