左遷に次ぐ左遷、退官して弁護士に転身後も、青法協と後身組織に籍を置く

 熊本で再任されなかった宮本判事補だが、簡易裁判所判事の資格は3年残っていたので、再任拒否の不当性を訴えながら簡易裁判所判事を続け、1973(昭和48)年に退官、弁護士に転身する。一方、井垣判事補は青法協に籍を置きつづけ、1984(昭和59)年に青法協裁判官部会が解散した後、後身となった「如月会」、そしてブルー・パージをきっかけにできた「裁判官懇話会」にも参加した。

「損になるとは分かっていたが」(井垣氏)

 しかし裁判官懇話会で行われた、判決を導く新しい法的論理や業務改善、市民に開かれた司法を目指した討論の模様は、『判例時報』という雑誌に都度掲載されてきた。この雑誌は、非公式にではあるが有力な裁判官たちが掲載判例の選定などに当たっており、司法の世界ではなかばオフィシャル性がある。そこに載るのだから、誰も「左翼思想の危険な団体」だと思っていないことは明らかなのだ。だが、差別は続けられた。

エリート裁判官はどういう経歴をたどるのか

 裁判所は最高裁判所(東京)を頂点に、東京・大阪・札幌・仙台・名古屋・高松・広島・福岡の高等裁判所、各都道府県の県庁所在地に地方裁判所と家庭裁判所、そして各県の地域ごとに「支部」があり、地方裁判所と家庭裁判所の機能を兼ねている。裁判官の人事は、大都市と地方を行ったり来たりしながら、キャリアを積んでいくとともに部長(裁判長)、所長と位が上がっていく。これが一握りのエリートになると、大都市の裁判所ばかりを回り、最高裁や法務省への出向を経験しながら出世していくことになる。

 例として、あるエリート裁判官の経歴を紹介しよう。

 1978年~大阪地裁判事補、80年~最高裁行政局付、82年~東京地裁判事補、84年~札幌地裁判事補、87年~東京地裁判事補、88年同判事(再任されて判事補から判事に)、90年最高裁調査官、95年福岡地家裁判事、96年福岡高裁判事、99年東京地裁判事、同年東京法務局訟務部長、2002年東京高裁判事、03年東京地裁部総括(裁判長)、05年同部総括(裁判部を異動)、08年東京高裁判事、同年那覇家裁所長、2010年福岡高裁部総括、2013年定年退官。

 この人は退官後に叙勲を受けている。ドラマにも出てくるが、最高裁判事を補佐する最高裁調査官は裁判官のエリートである。そして、途中で法務省(東京法務局)に出向しているのも出世のポイントである。