井垣裁判官の特別な仕事~「岸和田方式」調停

 なぜ、井垣氏は浮いていたのか。彼の裁判官人生の終わりの20年を評するなら、超リアリストとして「裁判の観察と工夫」に力を注いだ、ということになるだろう。その、裁判官の発想とは異なる「超現実主義的」なやり方に、ついていける人は少なかったといえる。望んだ刑事裁判官にはあてがってもらえず、家庭裁判所で調停ばかりの日々。地元の市民(多くは名望家)から任命された調停委員が、離婚や相続などの調停実務を行い、裁判官は調停が成立するときだけに出て行けばよく、「楽な仕事」であった。

 そこで井垣氏は、大阪家裁岸和田支部で「どうしたら調停の成立率を上げられるか」を研究し始めた。離婚調停は通常、夫と妻が別々に調停室に入り、調停委員と話す。それをもとに調停案が作られる。

 井垣氏は、「夫婦を一緒に調停室に入れたら、解決が早いのではないか」と考え、試みてみた。すると、しばしば夫婦げんかが井垣氏と調停委員の目の前で繰り広げられるが、その直後、憑きものが落ちたように「では、離婚の条件はどうするのが適当なのですか」と聞いてきて、あっという間に調停が成立したのである。これには調停委員たちも驚き、研究会を重ねて出来上がったノウハウは「岸和田方式」と呼ばれ、広がったのである。

 ところが1999(平成9)年、「これからは調停改革を進めていこう」と意気込んだ井垣氏の転勤先は、神戸家裁ではあるが、調停ではなく少年審判の担当だった。「また外された」とがっかりしたが、超弩級の事件が転がり込んでくる。神戸連続児童殺傷事件。「酒鬼薔薇(サカキバラ)」「少年A」の事件と言えば覚えている人も多いだろう。井垣判事はこの少年審判の担当になり、Aに対して医療少年院送致を言い渡した。