「酒鬼薔薇」事件を担当、少年審判で数々の実績をのこす

【朝ドラ『虎に翼』を深く知る】出世街道から転落、ブルー・パージの犠牲になった裁判官たちの「左遷に次ぐ左遷の人生」2006年2月、突然「(神戸連続児童殺傷事件で殺害された)土師(はせ)淳君の墓参りに行こう」と言い出し、筆者と墓参を済ませた直後の井垣氏。口にくわえているのは、食道ガン手術で声帯を摘出したため使っていた笛式人工声帯 Photo:F.T.

「少年法の枠の中で処理した事件で、特段変わったことをしたわけではない」と井垣氏は語るが、当時はできなかった、少年審判の場に被害者が同席し、意見を述べる道を探ったのは彼の功績だ(この事件をきっかけにした2003年施行の改正少年法で被害者参加が制度化された)。また、医療少年院送致後のAの動向を、制度的に担当裁判官が少年の更生を確認できることを生かして追跡し、少年の更生を確認するうちに、普段の少年審判で接する少年の話をとことん聞いて質問すると、面白いエピソードが数々出てきて、そのうちに少年が自ら問題点に気づくようになった。少年院からも「井垣判事が送ってくる少年は更生する確率が高い」と言われるようになったというのである。

 2005(平成17)年、井垣氏は65歳で定年退官した。いち家裁裁判官の平凡な定年であるのに、その日の朝日新聞大阪本社版の朝刊は、一面トップ記事でそれを伝えた。井垣氏は「ブルー・パージ」に勝ったといえるのだろうか?