<フラガール>後楽園球場で開かれた都市対抗野球大会でオール常磐ナインを応援するフラガールたち。観客を沸かせた(『常磐炭礦・オール常磐野球部の歴史』・常磐炭田史研究会刊より)   

 実は、一度だけ、野球部は復活した。3年連続都市対抗出場を果たした常磐炭礦野球部は、2回戦で日本石油に0-6で敗れた後の昭和37年10月、石炭産業の不況を理由に解散する。ところが、復活を願う声がやむことはなかった。このため、2年後に常磐炭礦傘下の系列会社の総力でサポートする「オール常磐硬式野球部」として再出発。

 オール常磐の初代監督を務めた出澤さんはこう振り返る。「『野球部を復活させる。フラガールを全国に有名にしてほしい』と会社から頼まれていましたから、それはもう必死でしたね。解散した時に移籍した選手の元に行き、頭を下げたこともあります。戻ってきてくれた選手もいましたよ」

 出澤さんらの努力は結果となって表れた。オール常磐は昭和41年、都市対抗で8強入りを成し遂げる。これは「常磐炭礦」時代を含め、過去最高成績。くしくも、関連観光会社の常磐ハワイアンセンターがオープンした年だった。フラガールが後楽園球場のベンチの上に立ち、観客を沸かせた。

スローガンは「野球の力で復興を」

「常磐炭礦野球部の活躍を見たり、教えを受けたりした人が大人になり、次の世代に技術を継承する。私もその一人です。野球経験者でもない親父から、夕食後に毎日のように野球談義を1時間は聞かされましたね。常磐炭礦のあの選手はこうだとか…。甲子園前に関西のチームと練習試合で対戦して感じましたが、やはり、プロ野球の球団がある街は野球が盛んであるように、近くにレベルの高いお手本があるのは大きい」

 今春、21世紀枠で春の甲子園に初出場した、いわき海星高校の関係者は話す。こうしたDNAは、現在も脈々と受け継がれる。IBCの設立に奔走し、事務局長を務める柳澤さんが力説する。「いわき市の高校は10年以上、甲子園から遠ざかっていましたが、少年野球は盛んです。海星高校の選手以外にも、今春、4期連続で甲子園に出場した聖光学院(福島)のエースと四番打者、捕手に加え、甲子園優勝経験のある常総学院(茨城)の主砲、盛岡大付属(岩手)のトップバッターはいわき市の出身です」。別の野球関係者によると、「昭和の怪物」と呼ばれた元巨人の江川卓投手も、父が炭鉱で働いていた関係で、幼少期はいわき市で過ごしたという。