フクヤマ氏の抱く
“リーダー”に関する懸念

 中国民主化への道を模索することを目的とする本連載のスタート部分に理論的支柱を提供してくれたのがアメリカの政治学者、フランシス・フクヤマ氏の研究成果であった(詳細は第2回4回参照)。連載を続けていく中で、またご登場していただくことがあるかもしれないが、繰り返し紹介してきた同氏最新の著書『The Origin of Political Order-From Prehuman Times to the French Revolution』(Farrar, Straus and Giroux)の最終ページでなされている問題提起を以って、ひとまずお別れとしたい。

「現代政治システムを構成する“強い政府”、“法の支配”、“政府の正当性”のうち、“強い政府”しか持ち得ない中国政治だが、今後“良いリーダー”を提供し続けることは可能なのか?歴史的には“悪い皇帝”(Bad Emperor)が登場した例はいくらでもある。この問題は、これからも中国政治についてまわるだろう。」

 過去10年間、中国の現場で共産党による政治を目撃するプロセスを通じて、私も同様の問題意識を抱いてきた。

 民主的選挙を経るのではなく、官僚主義、メリトクラシー、権力闘争、利害関係、政治文化、科挙の伝統などあらゆるファクターが複雑にからみ合って、人治的に選抜されるのが中国のリーダーである。だからこそ、時にとんでもない凄腕の政治家が生まれることもある。

 私自身、一人の中国人民が国家主席や政治局常務委員といった超高級官僚にまで上り詰めるプロセスを掌握しきれているわけではないが、日本の大企業で一社員が取締役、社長、会長に登っていく、あるいは霞ヶ関において一役人が事務次官に登っていく光景をイメージするとわかりやすいかもしれない。日本の社長や次官は、民主的に選ばれているというよりも、むしろ社内ポリティクス、人間関係、社内の昇進文化、権力闘争など人治的な要因にかなりの具合で左右されていると思う。

 中華人民共和国を「株式会社」にたとえて論じる方法は、今になって始まった試みではないが、それらの組織が「良いリーダー」を供給できないとは必ずしも言いきれない。民主的でないからこそ大胆不敵な凄腕ハンターを生産できることだって時にはあるのだろう。民主的選挙が必ずしも「良いリーダー」を生産するとは限らないのも事実である。

 フクシマ氏が問題にしているのは、いかなる政治システムであれ、「良いリーダー」と「悪いリーダー」は出現し得るという前提で、“政府の正当性”が民主的に担保されてこなかった中国政治が「極端に悪いリーダー」を産んでしまうケースであろう。社会からの監視を受けないまま野放しにされた自分勝手な皇帝が、国家を分裂や崩壊に追い込むような局面が、今後の中国政治でも出現するのではないか、という懸念である。

 民主的選挙を経て生まれるリーダーが常に「良いリーダー」とは限らないものの、「極端に悪いリーダー」を産んでしまう可能性は限られていると言える。