安倍政権が憲法解釈を変え集団的自衛権を行使できるようにしようと、本格的に動き出した。だが、現在の個別的自衛権だけでも、日本を守ろうとする米軍に協力することは可能で、憲法解釈を変える必要はない。第2次大戦後の米国の戦争は米国の自衛のための戦争ではないから、日本が集団的自衛権行使を認めても、共同軍事行動を取るのは難しいだろう。

国連憲章案は逆転した

「集団的自衛権」は同盟国など自国と密接な関係にある国が攻撃された場合、共同で軍事行動をとる権利だ。どの国も自国が攻撃されれば防衛する「個別的自衛権」を持つのは当然だが、「集団的自衛権」は抑止効果がある反面、他国の紛争に巻き込まれたり、局地紛争が大戦争に拡大しかねないなどの問題を含んでいる。

 第1次大戦はオーストリア皇太子夫妻がボスニアでセルビア人に暗殺された事件がきっかけで、当初はオーストリアとセルビアの戦争だったが、欧州列国間や日本などに張り巡らされていた同盟・協商(准同盟)網が導火線となって欧州ほぼ全域に戦火が拡大、日本、米国、中東、アフリカまで巻き込む大戦争となった。皇族2人の死が1500万人近い死者が出る惨事を招いた。

 これらの経験から、第2次大戦末期の1944年8月から10月に米、英、ソ連、中国の4ヵ国がワシントン郊外のダンバートンオークスでまとめた国連憲章草案では、武力行使が許されるのは①国連の機関(安全保障理事会)が強制行動を決めた場合、②国際平和のための地域的取極めに加盟している国が、条約にもとづき、安保理の認可を得た場合――に限られるとしていた。「地域的取極め」(同盟のたぐい)が武力行使をするにも国連安保理の認可が必要、としたことは集団的自衛権を否定し、制裁、強制行動は国連が決めるとの原則を貫くものだった。各国の個別的自衛権についてはこの草案は全くふれていないが、「それは当然認められる」と考えられていたからだろう。

 ところがベルリン陥落後の1945年4月25日からサンフランシスコで50ヵ国が参加し開かれた国連憲章採決のための会議では、憲章案51条に「この憲章のいかなる規定も……個別的又は集団的自衛の権利を害するものではない」という、当初の草案とは逆の趣旨の規定が入った。この逆転は①米州(南北アメリカ)諸国が1945年3月に共同防衛議定書に調印した、②2月のヤルタでの米英ソの首脳会談で安保理の常任理事国5ヵ国が拒否権を持つことが決まった、という事情によるものだった。常任理事国5ヵ国のいずれか(あるいはその支援を受けた国)が憲章違反の武力行使をした場合、安保理で拒否権が行使されれば共同防衛ができなくなるのではないか、との問題点が出てきたためだった。