SNS(ソーシャルネットワーク・サービス)の発達等により、誰でも気軽に見知らぬ人と自由に意見交換ができる時代が到来した。とても素晴らしいことだと考える。一昔前は、例えば自分の意見を表明しようとすれば、必ずしも掲載されるとは限らない新聞や雑誌に投稿するぐらいしか手段がなかった。しかし、現在ではインターネットの普及により、ブログを初めとして、フェイスブックやツイッター等いくらでも自由に使える手段がある。

 ただし、こうした言論手段の多様化・簡便化と、言論空間の豊かさや有効性とは必ずしもリンクしている訳ではない。言論空間を有効に機能させるためには、やはりそれなりの「言論の作法」が必要ではないか。

本旨と整合性が最大のポイント

 SNSを活用した言論空間には、1つの大きな特徴がある。それは多くが1回限りの投稿とは異なり、ほとんどの人が反復・継続して意思表明を行うということだ。すなわち、本名であれ匿名であれ、その人の主義主張が、全体としては、大変分かりやすくなっているということである。そうであれば、批判する場合には、枝葉や言葉尻ではなく、まずその人の主張の本旨を骨太にとらえて、批判しなければならない。そうした本質的な批判より、枝葉や言葉尻をとらえた批判が多く見られるのはとても残念なことである。

 例えば、筆者は社会保障と税の一体改革の必要性を当コラムでも何度も取り上げているが、本旨は一貫して「民主主義の正統性」の問題にある。

 政治とは税金の分配である。国債の乱発は、私たちの子どもや孫が本来分けるべき税金を、私たちが借金(前借り)をして実質的に勝手に処分してしまうことに他ならない(国債費はこのまま放置すればやがて予算の3分の1にも達するだろう)。それで、民主主義の正統性が保てるだろうか。私たちの子どもや孫は、どういうプロセスを通じて、彼らが固有に持っているはずの将来の税金を分配する権利を私達に授権しているのだろうか、という問題である。

 また、本旨に劣らず整合性も重要である。税金は、公共財や公共サービス提供の対価に他ならないのだから、負担がすなわち給付である。例えば市民の税負担が、子育てや年金・医療サービスの給付に回るといったように。負担が給付であるなら、40兆円強の税収で90兆円強の予算を執行している現状がサスティナブルであるはずがない。高齢者の割合が増加する中では、負担を増やし給付を減らして両者をバランスさせなければこの国が立ち行かないことは明らかである。