リーゼントにこだわりと誇りを持つ男

【新連載】<br />タクシーは助手席に座れ!<br />日本人が知らないシンガポール「浪花節」事情ベイサンズをバックに、キメポーズをとる息子と僕

 僕がシンガポールに移住したのは、いまから11年前のこと。アジア一帯がSARS(重症急性呼吸器症候群)被害にあえいでいた翌年である。現在の仕事は、シンガポールにあるマイクロソフト「アジアパシフィックオペレーションセンター」にて、アジア域内のライセンス推進を担当。いわゆる日本からの駐在員としてではなく、現地採用スタッフとして、ローカル外国人と同じ土壌で働いている。僕と同様、ローカルスクールに通う6歳の娘と3歳の息子をこよなく愛する父親でもある。

 髪型は、見てのとおりの「リーゼント」。もう18年にもなるだろうか。“就活”以来の長い付き合いだ。大学卒業後、日本の会社で働いていたときには、毎日のように「いますぐ髪型を変えるように」と言われたものだ。しかし、自慢のリーゼントだけは頑なに貫いてきた。日本はもちろん、いまや世界でも珍しがられるリーゼント。アメリカでは「エルビス」と呼ばれるこの髪型に、私はこだわりと誇りを持ち続けている。髪が存在するかぎり、たとえ生ける化石と言われようとも、これからもリーゼントをやめることはないだろう。そんなわけでいつしか僕は、周囲から「リーゼントマネジャー」と呼ばれるようになっていた。

 座右の銘は「Stay Gold!」。「いつまでも輝いていて!」という意味だ。この言葉に支えられて、私はこれまでの人生を歩んできたと言っても過言ではない。だからこそ、メールの末尾にはこの「Stay Gold!」を添えることを忘れない。それはこの言葉に出会った13歳から現在まで続いている。

僕がシンガポールにたどり着くまで

 アジアのグローバルシティとして大きな変化を遂げたシンガポール。数年前、スマップが話題のスポット「マリーナベイサンズ」に登場するソフトバンクのCMで、日本でも一躍注目を集めた。近年では、ビジネスチャンスを求めてやってくる、若き日本人起業家も多い。

 そんなシンガポールのイメージもあってか、日本に帰国すると、僕のことを「世界の第一線で活躍するグローバルエリート」だと言う人がときどきいる。しかし、それは大きな誤解だ。なぜなら僕の人生は挫折の連続。常に第1志望(ファーストチョイス)は叶わず、つねに第2志望(セカンドチョイス)を選んでばかりだ。そうした挫折のなかで、偶然たどり着いたのがシンガポール。自分らしい生き方を見つけようと、必死にもがいてきただけなのだ。僕の挫折の歴史をご紹介しよう。

◎挫折その①――国際ジャーナリストの夢破れる

 まずは大学時代。映画とハードボイルドを愛するロン毛青年だった。物心ついたときから小田実、立花隆、落合信彦に憧れ、夢は国際ジャーナリストになること。そのための知見を広めるため、休みのたびにバックパッカーとして世界各国を放浪した。それが高じて、1年間アメリカ留学も経験。日本では工学部だったが、アメリカで国際関係学と宗教学のダブルメジャーを専攻した。

【新連載】<br />タクシーは助手席に座れ!<br />日本人が知らないシンガポール「浪花節」事情左は学生時代のハードボイルドな僕。そして右は現在の僕(ただし、オフィス仕様)