気のせいか、それともSNSが発達したためか、今年の花見の季節がやってくると、Facebookや中国の微博、微信(WeChat)などのSNSに花見関連の情報がおびただしく出ている。その勢いに驚かされた。

花見にも思わず課題を捜す

 日本国内の花見の名所だけではなく、中国の桜の花見のビューポイントまでいろいろと紹介され、花見をテーマにしたFacebookやWeChatなどのグループ活動もあちらこちらで開催されており、私のところにもたくさんの誘いが来ている。ファンの皆さんに不公平感を与えないため、私は普段から、こうしたイベントには参加しないが、それでも誘いを受ける度に、関係者の皆さんの熱意と春が確実に近づいてきたということを実感している。

 ちょうど花見のシーズンが訪れる直前に中国から戻ってきたが、日本に飛ぶ定期航空便のチケットも取りにくい状態になっている。満開の桜を一目見ようと思って、日本へやってくる中国人観光客の賑やかな笑い声が、冷え切った日中関係に心なしか春の息吹を少しばかり吹き込むことができたのではないかと思う。

 『古今和歌集』には、「世の中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし」という詩がある。世の中にもし桜というものがなければ、落ち着いて春の毎日を送れたのに、という意味だが、もちろん、反語としてこのような詩を古人が書いたのだろう。

 上海外国語大学(当時は上海外国語学院だった)を卒業してまもなく覚えたこの詩は、今年ほどその意味を身に染みて感じたことはなかった。

 しかし、実際、家族の者と一緒に花見に出て行くと、ジャーナリストという職種の人間の悲しい性か、それとも自然な反応かはわからないが、ついつい、その花見光景に課題を見つけ出しては自分ひとりで考え込んだりしていた。