国土の統一を成し遂げたウラジミール公は、王国にふさわしい宗教を取り入れようと考えた。このときの選択肢は、イスラム教、カトリック、ギリシア正教の3つだった。
宣教師たちの話を聞いたウラジミール公は、イスラム教はたくさんの妻を持てるのはいいが、酒を飲んではいけないというのでは人生の楽しみがなくなってしまうと却下した。カトリックとギリシア正教は、調査団をローマ(バチカン)とコンスタンティノポリス(アヤソフィア)に派遣してどちらが荘厳かで決めることにした――。このよく知られた話は後世の創作のようだが、ウラジミール公の使節がアヤソフィアを訪れたのは事実で、次のような報告が残されている。
彼ら(ビザンティン人)は、自分たちの教会(アヤソフィア)へ私たちを連れてゆきました。私たちは天上にいたのか地上にいたのかわかりませんでした。地上にはそのような美しい光景はなく、それを語ることもできません……。私たちはその美しさを忘れることはできません(『ロシア原初年代記』987年/井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』より)。
全盛期のビザンティン帝国は、文化の程度においても、絢爛豪華さにおいても、戦争と内乱によって財政が破綻していたローマ(バチカン)を圧倒していた。
ウラジミール大公が正教の洗礼を受けたのは、ビザンティン帝国皇帝バシレウス2世の妹アンナを妻として娶ったからだ。ビザンティン皇帝と親族関係を結ぶという栄誉に感激したウラジミール公は、5人の妻と800人の妾と縁を切ってアンナをただ1人の妻とし、さらには妻へのプレゼントとしてギリシア正教を国教とし、国民全員に洗礼を受けさせた。

「ロシアはギリシアから生まれた」
スラブ民族がビザンティン人に知られるようになるのは9世紀で、それまでは文字も持たない遊牧民(蛮族)だった。帝国の北縁に住むようになった彼らに最初に布教を行なったのが正教の修道士・聖キリルで、聖書を彼らの言葉に翻訳するためにギリシア文字とヘブライ文字を組み合わせた「キリル文字」、すなわち現在のロシア文字を考案した。
聖キリルたちの伝道によって945年にブルガリアがキリスト教を国教とし総主教座が設置される。次いでキエフ(ウクライナ)やセルビアにもキリスト教は浸透し正教の教えはスラブ民族の文化や生活と一体化していく。
その後、キエフ朝は分裂し、さらにはモンゴルの襲来を受け、ロシアは混乱期を迎える。だがモンゴルは宗教にまったく関心を示さなかったため、この時期も正教は勢力を拡げ、モスクワ朝がタタールのくびき(モンゴル支配)を脱してロシアを再統一すると、総主教座もキエフからモスクワへと引き継がれる。ウクライナ問題がこじれるのは、ロシア人からすると、そこが他国(別の主権国家)ではなくロシア(ルーシ)の一部だからだ。
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