穂積は国家主義から出発して国家主義を脱け出るようになったが、大日本帝国のアジア解放を本気で信じていた。だから、台湾や朝鮮の独立運動を助け、何度か投獄されている。
 穂積も捕まったときに特高から拷問を受けたが、朝鮮や台湾の人間に対するそれは比べものにならないくらい酷かった。
 「なんであんなひどいことをするんだ」
 と穂積が抗議すると、
 「アイツらは人間じゃない。人間だと思うからいらんことを言うんだ」
 と逆に怒鳴り返された。

 戦後はアジアからの留学生の面倒を徹底的に見た穂積五一の影響下に「村山談話」は出された。穂積は保守の人であり、その穂積をいまなお敬慕する村山は、いわゆる“浮かれ革新”の人間ではない。

 村山は穂積の人脈の広さをこう書いている。
 「穂積先生は度量の大きい人で、先生を慕って、右翼から左翼、また意外な人物も出入りをしていた。五・一五事件に参加した国家主義者の三上卓、元共産党員の佐野学、水平社運動の指導者の西光万吉、さらには69連勝の双葉山を破った安藝ノ海といった人たちである。
 至軒寮からは戦後、各界に人材を多数輩出している。政界だけをとっても、元自民党参議院議員の金丸三郎と山本富雄両氏、元民社党委員長の塚本三郎、私をこの寮に紹介してくれた丸谷金保も北海道池田町長を経て、社会党参議院議員になった」

 “ワイン町長”として知られる丸谷について村山は、2014年7月26日付『朝日新聞』夕刊の「惜別」欄で、
 「雄弁家で、とにかく勉強熱心だった。役場の仕事にとらわれない発想は、そういうところから生まれたのだと思う」
 と語っている。