前代未聞のメディア・イベントはいかに成立したのか

 前回の記事では、吉田調書の内容の多くは政府事故調の報告に織り込み済みであり、朝日新聞の9割撤退スクープの検証に資する情報以外に、大きな新事実はない、という旨を述べた。それに対して、「新事実がないならば、なぜ朝日新聞は、命令違反で社員の9割が逃げたと報道したのか?」という疑問を何人かから投げかけられた。

 たいした新情報もない文書を元に、なぜ朝日新聞はスクープを報じようとしたのか。これは非常に重要な問いだ。

 結論としては、その明確な理由はわからない。

 いや、大方の予想はつく。「ウケ狙い」だ。「とにかく原発・放射線が危ない」「東電はけしからん」「政府は不都合なことを隠蔽しているんだ」「真実から阻害された市民は立ち上がれ」という、朝日新聞はじめ一部メディアがこの3年間何度も繰り返してきたパターン。これは3.11以降、権力批判志向の強いメディア・知識人が繰り出せば大ウケする「鉄板ネタ」となった。それに味をしめて——。だが、本当にそんなどうしようもない理由で記者が動いたのだろうか。その答えは今回の事件を引き起こした当事者にしかわからないし、そうでないことを願いたい。

 いずれにせよ、「新事実がないならば、なぜ朝日新聞は、命令違反で社員の9割が逃げたと報道したのか?」という問いへの明確な理由は、すでに朝日新聞が経緯の概略を説明している部分もあるものの、詳細を理解するのには不十分なのが現状だ。吉田調書問題を追いかけている他の報道機関の記者に聞いても、「なぜ、あんな脇の甘いことをしたのかわからない」「吉田氏が、第二原発に行ったことをあとから肯定的に評価している、という部分を入れても記事は成立したはずだ。なぜ、わざわざ『悪質な歪曲』と突っ込まれそうなことをしたのか」といった疑問の声を聞くばかりだ。

 ここでは、彼らの主観から見て「なぜそうしたのか」(Why)ではなく、客観的に「大手紙幹部の進退を左右することにまでなったメディア・イベントが、いかに成立したのか」(How)を簡単に整理しておこう。

 一般に、メディアが何らかの情報を入手し、それが多くの人の興味を引くものだとしても、無条件にスクープしていいわけではない。例えば、犯罪の具体的な手法を流すことは模倣犯につながり、自殺者が出た際にそれを配慮なく報じることはさらなる自殺者を生む。テロの鎮圧や検察のガサ入れも、事前にメディアに情報が出回っていたとしても、当然それをむやみに報じることはない。外交や株式市場に影響を与える情報や、病気・災害に関するあいまいな情報も、精査されなければデマ・風説が大きな害を生むこともある。

 なされるべき情報公開がいま以上に進むことは必要だが、常に一人歩きする可能性を持つ情報の取り扱いには、細心の注意を払う必要がある。今回も、まさに吉田氏が懸念した通りに一人歩きをしているのが実情だ。

 朝日新聞が、非公開情報を死者の遺志に背いてまで公開した背景には、それが社会のために役立つはずだという「正義」があったはずだ。しかし、結果はどうだっただろうか。朝日新聞の当初のスクープは、「情報独占」を足場として成立していたものといえるだろう。

 誰も確認できない、確認できても吉田氏本人やそこに書かれた人は反論できない立場にいる。その構図のなかで、手元の情報に一定の解釈を加えて、自らの「正義」を主張する記事にする。

 ところが、8月後半、情報が他の媒体にも共有されて「情報独占」が崩れ、多角的な検証が始まると、その「解釈」に「歪曲・曲解」の色が強いという疑問が提示され出した。当初から朝日を強く批判していた産経のみならず、読売・毎日等も、吉田調書の現物を確認したうえでの批判を展開し始めている。

 実は、それ以前から、一部の週刊誌やジャーナリストが「朝日新聞の吉田調書報道の偏り」を主張していたが、それらに対して朝日側がしてきたことは「抗議文を送る」などの対応だった。いまになって抗議文の取り下げを行ったものの、当初の反省・自己検証をする素振りも見せず、法的手段をちらつかせるという手法は、現時点から振り返れば「言論の自由」への圧力と言われても仕方ない側面もある。

元の記事はいまでもWebで確認できるので再読いただきたいが、朝日新聞の当初報道と他報道機関の後追い報道の論点を端的にまとめると、以下のようになるだろう。

 そもそものポイントはこういうことだ。

 A)津波による電源喪失のなか、福島第一原発の状況が様々に悪化すると、吉田所長は作業員たちに、いまいる福島第一原発内の安全な場所に退避するように命じた。

 B)ところが、結果として多くの所員がバスや自家用車に乗って福島第二原発に移動してしまう。

 問題はA)とB)の間に何が起こったのか、どう解釈できるのか、ということだ。朝日新聞以外の産経・読売・毎日などの新聞は、吉田調書のコピーを入手したうえで、A)とB)の間を、現場での「誤解」であり、当事者間の「意図せざる結果」だと見ている。大雑把にまとめると、以下のようになるだろう。

・吉田所長から、約700人の福島第一原発の現場所員への情報伝達のプロセスで誤解が生じた。

・「誤解」とは、吉田氏が福島第一原発内部の建物内などに退避するよう言ったことを、現場で指示を出す所員が第二原発に退避するものと捉えてしまったことである。その所員は、他の所員にバスや自家用車で向かうよう伝えた。

・その結果、たしかに一時的に所員の9割に当たる650人ほどが第二原発に向かった。しかし、その誤りに気づき、幹部などはすぐに帰ってきた。

・調書のなかで吉田氏は、第二原発に向かった判断を「意図的に命令に反した撤退」と捉えることはなく、むしろ、あとから振り返れば現場所員の正しい判断だった評価している。

 以上である。

 一方、朝日新聞の報道は「9割の作業員が、組織の統制が取れていない故に、こともあろうに撤退した」という趣旨で報じた。いや、「報じた」というと語弊があるかもしれない。

 朝日新聞の当初報道を細かく読んだうえで正確に言うと、1)必ずしも「9割の所員が吉田所長の命令を知ったうえで敵前逃亡した」とは断定できないように、慎重な言葉使いで書いている部分があるものの、2)結果として「9割の所員が吉田所長の命令を知ったうえで敵前逃亡した」かのように情報が流れるメディア・イベントが成立した(あるいは、意図的に成立させた)。そのように読むことができるかもしれない。

 まず、1)については、朝日新聞の当初報道を読み進めると、所員が命令に「反して」「違反して」という言葉使いのもとで、B)の帰結に至ったと論理を詰める。これだけ見れば、証拠(=手元にある調書)に基づき、丁寧にA)とB)との間の矛盾を指摘し、事実関係を整理しているだけにも見える。

 しかし、その事実関係に、独自の解釈を印象づけるような描写があるのも確かだ。例えば、福島第一原発に最後まで残った50人を「フクシマ・フィフティー」と称える、原発事故直後に流通した物語に対しては、「フクシマ・フィフティーの真相」内で以下のように表現している。

「しかし、吉田自身も含め69人が福島第一原発にとどまったのは、所員らが所長の命令に反して福島第二原発に行ってしまった結果に過ぎない。所長が統率をとれず、要員が幹部社員も含めて一気に9割もいなくなった福島第一原発では、対応が難しい課題が次々と噴出した」

 所長の命令に反したのが、「統率の欠如」の問題だと強調した。そのうえで、以下のようにも主張する。

「所員が大挙して所長の命令に反して福島第二原発に撤退し、ほとんど作業という作業ができなかったときに、福島第一原発に本当の危機的事象が起きた可能性がある」

 つまり、「組織のコントロールが不能になったうえに、原発事故のコントロールも不能になった」と、恣意的に特定の印象づけをしようとする意図があるように見える。