フランク・ウィンフィールド・ウルワース フランク・ウィンフィールド・ウルワース(1852~1919)はチェーンストアの先駆者だ。貧しい境遇から身を起こし、若いときに仕事でさまざまな挫折を経験したにもかかわらず、アメリカの大富豪の仲間入りを果たした。ニューヨーク州の小さな町で生まれた農家の少年は、「ファイブ・アンド・テン」の構想を打ち出し、まずはアメリカ、そしてついには全世界に展開した。

 1879年には1軒だったウルワースの店舗は、1918年には1000店を数えた。このF・W・ウルワース社の成長はまさに驚異的で、小売業の業態に変化を起こすと同時に、その創業者に富と名声をもたらした。ウルワースこそ他に先駆けて低価格路線を打ち出した小売チェーンだ。ウルワース本人は、自分の成功の秘密はうまく権限を委譲したことだという。

成功への階段

 ウルワースはニューヨーク州ロッドマンで生まれた。長男だった。1858年の後半、ウルワースが7歳のとき、一家はニューヨーク州グレートベンド近くの108エーカーの農場に引っ越した。人口わずか125人の町では、ウルワースが教育を受ける機会は限られていた。教室がただ1室の校舎に弟と一緒に通っている。実際にはほとんどの時間、勉強するよりも、乳牛8頭のめんどうを見て父の仕事を手伝っていた。

 16歳のとき、短期間、商業学校に通ったあと、ある駅長が経営する売店で仕事をし、次にダン・マクニールの雑貨店で店員として働いた。両方の仕事とも無給だった。その見返りに、ダン・マクニールはウルワースをウィリアム・ムーアに推薦した。ムーアはニューヨーク州ウォータータウンにある大手乾物店オーグズベリー&ムーアのオーナーだった。1873年、ムーアはウルワースを雇うことに同意した。

 オーグズベリー&ムーアでは、出世コースの一番下の階段から出発した。床を掃除し、ウインドーのディスプレイを考え、商品を配達し、言われればどんな仕事もこなした。

 勤務時間は長く、朝7時から夜9時まで週に6日働いている。オーナーは当初、ウルワースに1年間無給で働くように要求したが交渉し、無給の期間は3ヵ月、その次の3ヵ月の給与を3ドル50セントにすることで折り合いをつけた。

 それから2年後、ウルワースはブッシュノール百貨店に移って販売員となる。1876年、カナダ人のジェニー・クライトンと結婚し、4エーカーの農場を手に入れた。

 運の悪いことに、厳しい環境と仕事で何の助けも受けられなかったことが原因で、ウルワースは発熱とストレス性の疾患に苦しめられた。ブッシュノールの仕事を辞め、仕事から離れて1年間自宅療養をせざるを得なかった。病から回復すると、昔の雇い主のウィリアム・ムーアが訪ねてきて、社名を新しくしたムーア&スミス社での復職を勧めてくれた。ウルワースは週給10ドルで仕事をすることに決めた。