経済合理的な「目標による管理」を追求すると、手抜きの安全性が最適であるという不条理に陥ってしまう。この問題に向き合ったのがイマヌエル・カント、ピーター・F・ドラッカー、そして「大和心」を説いた小林秀雄である。経済主義だけではない、真の「目標による管理」とは何か。
 

カントの自由と責任

 経済合理的な「目標による管理」を徹底すると、完全安全性(正当性)の達成を無視しなければならない。それゆえ、手抜きの安全性が最適な経済合理的な状態になるという不条理に陥る。

 イマヌエル・カントは、この不条理を解決するために、人間にはもう1つの能力があると仮定せざるをえないと主張した。人間は刺激反応的に生きる単なる他律的な動物やモノではなく、自律的で能動的な存在でもあると考えたのである。

 自律的というのは、他律的とは逆の意味となる。お金がもらえなくても、上司の命令がなくても、制度やルールがなくても自分の意志で能動的に行動することをいう。人間は、そのような自律的存在でもあるとカントは考えた。そして、それを裏付ける根拠もある。

 たとえば、2011年3月に発生した東京電力の原発事故。大量の放射能が発生している中、危険を顧みず、自衛隊、消防隊、そして現場の作業員たちが必死に冷却作業を行った。その決死の行動を見て感動した人も多いだろう。

 彼らは、割増賃金が欲しくて他律的に作業をしたのだろうか。名声を得るために命を懸けたのであろうか。単に上司の命令に従っただけだったのだろうか。おそらく違う。危険な作業だから、本当は動物のように逃げたかったかもしれない。実際に、逃げることもできたかもしれない。それにもかかわらず、その動物的安全性の欲求を抑えて、人間として自律的に立ち向かっていったように思える。

 カントは、このような行動は、因果法則的に説明可能な経験的事実ではなく、「理性の事実」だという。それは、他律的で刺激反応的な行動に逆らう能力であり、まさに自律的意志の現れだとし、カントはこれを「自由意志」だといった。このような自由意志は、人間にしかないので、自由に関わることはすべて人間主義的ということができる。