2006年に中国に移住し、蘇州、北京、広州、そして08年からは上海に在住。情報誌の編集長を経て現在はフリーランスとして活躍する大橋さんの中国レポート。白血病を患い13歳で生涯の幕を閉じた中国の少年と、ある日本人演奏家との友情物語です。
廣瀬清隆さんにはじめてお会いしたのは2011年だったろうか。当時、情報誌の編集をしていた私は、中国抗癲癇協会らが主催するチャリティコンサートに出演した廣瀬さんを、ある日本人を介して紹介されたのだった。
廣瀬さんは、自腹で航空券を購入して上海に来ていた。ボランティアのためにここまでするひとがいるのかと、驚いたことを記憶している。
大病を患った経験がボランティアへ衝き動かす
製薬会社に勤務する廣瀬さんは、ウィーン・ベートーベン協会(本部:ウィーン市)の会員であり、埼玉県音楽家協会の会員でもある。会社員とピアニストとの二足のわらじを履き、時間の許す限りコンサートに出演している。
小さい頃からピアノを習い、音大を志したこともあったが、父親の反対であえなく断念。結局、大学での専攻は経済学部だったが、ピアノから離れることはなかった。
いまでも日課の練習は欠かさない。東京都内の自宅マンションには防音室を完備し、グランドピアノが鎮座している。また長期休暇ではわざわざオーストリアまで行き、ウィーン国立音楽大学で定期的に個人レッスンを受けている。
そんな廣瀬さんが、なぜボランティアに目覚めたのか。話は03年にさかのぼる。
仕事に、音楽に一生懸命だった廣瀬さんを突如、病魔が襲う。急性C型肝炎だった。死に至る可能性もある大病で、治療は1年半という長きにわたった。ふさぎ込む毎日だったが、そこで支えとなったのは、やはり音楽だった。
それはクリスマスの日だった。いつの間に練習していたのか、病院スタッフたちがコーラスを披露してくれたのだ。病気を忘れて聴き入っている患者たちの姿が印象的だった。
「同じように、ひとの気持ちを変えることがしたい」(廣瀬さん)
完治すると、自分の特技であるピアノを活かしたボランティア活動に取り組むことを決意する。以来、同じ境遇のひとたちを勇気づけようと、クリスマスの時期に病院でボランティアの演奏をするほか、老人ホームなどほかの施設でも積極的に活動を続けている。
廣瀬さんは、製薬会社ではCSRを推進する部署に所属している。本業と結びつければ、身銭を切ることなくボランティア活動ができるのではないかとたずねたことがあるが、廣瀬さんはそれを望まない。公私を混同したくないからだという。
海外でレッスンを受けた経験から、外国人の音楽仲間も少なくない。そのひとりからの誘いで、上海に通うようになる。
上海の水が合っていたのだろう。上海でもボランティア活動をしてみたいと思うようになった廣瀬さんが関連会社に相談をすると、上海法人の担当者を紹介され、それがきっかけでコンサートが実現したのだ。
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