安倍総理が、念願の「憲法改正」を実行しようとしている。総理は2月20日の衆院予算委員会で、憲法改正について、「国民投票にかけようか、発議をしようかというところに至る最後の過程にある」と語った。

“手段”に過ぎない憲法改正が“目的”になる危うさ憲法改正に意欲を見せる安倍総理。国家にとっての「正しい目的」が何かを、改めて考え直していただきたい    Photo:ロイター/アフロ

 これを聞いて、「いよいよここまで来たか!」とワクワクしている人もいるだろう。逆に「日本は、また『戦争できる国』になるのか!」と嘆いている人もいるだろう。

 筆者の思いは、もう少し複雑である。筆者は、終戦直後に米国がつくった「米国製日本国憲法」を神聖視していない。できることなら、「改正」どころか、日本人の手で「自主憲法をつくれ!」とすら思う。しかし、そう単純にいかないのが、国際社会の複雑さだ。今回は、この難問、「憲法改正」について考えてみよう。

「正しい目的」を忘れたときに
起こる“悲劇”

 全然関係ないような話からはじめる。月収30万円のAさんは、一念発起して「月収を100万円にする!」と決意した。期限は、「3年後の12月31日」。Aさんは、「目標」を設定したのだ。

 ところで、Aさんは「なんのために」月収を100万円にしたいのか?これが、「目的」である。たとえば、それは「家を買うため」かもしれない。家を買うのは、「月収100万円」の「目的」であると同時に、「目標」でもある。さらに突っ込んで、「なんのために家を買いたいのか?」と質問してみる。すると、「家族がより幸せに暮らせるため」と答えた。これが、Aさん「究極の目的」であり、「正しい目的」である。Aさんは片時もこのことを忘れるべきではない。