2002年10月、インドネシアの観光地バリ島の繁華街で路上に駐車していた自動車が爆発、外国人観光客など200人以上が死亡する大惨事となった。標的とされたのは外国人専門のディスコで、爆発が起きたのがもっとも賑わう夜だったことから、オーストラリア人など欧米の若者たちを標的にしたのは明らかだった(日本人も10名ほどが犠牲になった)。
翌03年は首都ジャカルタの米系高級ホテルで爆弾テロが起き12名が死亡、04年にはジャカルタ市内のオーストラリア大使館の爆発で9名が死亡、そして05年10月1日、バリ島最大の観光地クタのレストランなど3カ所で爆発があり、日本人1人を含む23人が死亡した(容疑者3名も自爆した)。
私がバリ島を訪れたのはその2カ月後、2005年12月の中旬だった。
テロ直後のバリ島
いまとなってはなぜテロの直後にバリ島に行こうと思ったのかは覚えていない。私はたんなる旅行者で、取材をしたいわけでもなく、「安い値段で高級ホテルに泊まれる」という程度の感覚だったのだろう――その当時はいまのように、「国に迷惑をかけるから危険なところには行くな」という鬱陶しい雰囲気もなかったし。
宿泊したのはビーチリゾート・ヌサドゥアの高級ホテルで、いまだと1泊5~6万円はするが、そのときは1泊1万5000円だった。ヌサドゥアはバリ島の南にあるくびれたような半島で、空港からの道路には検問所が設けられ、軍がすべての車両を調べていた。この道路を使わなければリゾートエリアには入れないようになっているのだ。ホテルの車寄せの手前でも、トランクはもちろん車の底にまで金属探知機を入れて爆発物がないか確認していた。
翌日はクタのビーチを覗いてみた。いつもなら観光客で賑わうショッピングストリートは閑散としていて、ビーチにいるのは手持ち無沙汰の物売りやマッサージの女性たちばかりだった。そんな彼らが私を見つけると次々と駆け寄ってきて、たちまち囲まれてしまう。これではたまらないと、人通りの少ない路地に入った。
ビーチにいるのは客引きばかりだとわかって、山間部の観光地ウブドまで足を延ばしてみることにした。とはいえ、もういちどタクシーを探しにビーチエリアまで戻るのも面倒だ。すると、雑貨屋の前に観光タクシーが1台、駐まっているのに気がついた。
店に入って、運転手らしき男性に「ウブドまで行きたいんだけど」と訊いてみた。男性は最初、なんのことかわからないような呆然とした顔をしていたが、やがて満面の笑みが広がった。するとそのとき、店にいた4~5人の女の子たちが一斉に立ち上がって拍手した。
今度はこっちが驚く番だった。いったい何が起きたのだろう。
車に乗ってから事情を聞いてみた。
スマリさんは個人営業の観光ガイド兼ドライバーだが、10月のテロ事件以降、まったく仕事がなくなってしまったのだという。奥さんはホテルの清掃の仕事をしていたが、それも2週間前に解雇されてしまった。家には中学生を筆頭に3人の子どもたちがおり、このまま観光客が戻らなければ生活が立ち行かなくなってしまう。そんな愚痴を店の女の子たちにこぼしていたときに、いきなり私が現われたのだという――それで、みんなから祝福の拍手をもらったのだ。
バリは観光で成り立っているから、観光客を狙ったテロが起きると島の経済が崩壊してしまう。
ウブドに行く途中に金細工の店に寄ったが、そこもテロ事件以降、団体観光客がぱったり途絶え、女主人は「このままでは職工たちに給料を払うことすらできない」と嘆いた。店の隣には作業場があり、そこでは女性たちが粗末な木のテーブルに向かい、細かな手作業を一心不乱に行なっていた。
私は土産品の類をほとんど買わないのだが、話を聞いていると立ち去りがたくなって、扇の金細工をひとつ買うことにした。女主人は「どうせお客さんは来ないから」と、私が選んだよりひとまわり大きなものに同じ値段で変えてくれた。
ウブドの街にも観光客はほとんどいなかった。大通りには、客待ちのタクシーやオートバイがずらりと並んでいる。スマリさんが案内してくれたレストランでは毎夜バリ舞踏のショーが行なわれ、いつもは満席でなかなかテーブルを取れないとのことだったが、その夜は個人旅行者らしいグループが5、6組いるだけだった。
翌日も1日、スマリさんにバリ島の案内を頼むことにした。
ヒンドゥー寺院や高級住宅街のスミニャック、バックパッカーの集まるレギャンなどを訪れたあと、スマリさんから「今日の夜はローカルのシーフードレストランでいいですか?」と訊かれた。
連れていかれたのは、古くからの漁港の街ジンバランのシーフードバーベキューの店だった。砂浜に沿って屋台が並び、夕陽を眺めながら食事ができるので観光客に人気だが、その日、広い店内にいたのはビールを大ジョッキで飲んでいるオランダ人の3人グループだけだった。10月の爆弾テロは3カ所でほぼ同時に発生したが、そのひとつがジンバランのシーフードレストランだったのだ。
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