アメリカ軍駐屯に激怒し、サウジ王家と決裂
なぜ、ウサマは王家という後ろ盾を失うことも顧みないほど、激怒したのでしょうか? この理由を考えるには、サウジ・アラビア(サウド家のアラビアという意味)の成り立ちを考慮しておく必要があります。
もちろん、ジハード論に傾倒していたウサマにとって、これまで異教徒が足を踏み入れることを拒否してきた聖地メッカを守る、ひいてはイスラム世界全体の守護者となるべきサウジ王家が、異教徒の代表格ともいえるアメリカを引き入れるということは、許されざるべきゆゆしき問題ではありました。ですが、実は問題はそれだけではないのです。
サウジ・アラビアという国家はもともと、先ほどのべたイブン・タイミーヤの思想に強く影響をうけたムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブが提唱する宗教運動(イスラム原理主義運動:ワッハーブ運動)を、当時のサウジ・アラビア地域の一豪族であったサウジ家が助けて建設した国家であるという背景があったのです(1741~1818年、1824~1891年、1931年~現在まで)。
ワッハーブはコーランを文字通り尊守し、イスラム法を厳格に守るべきであると主張します。そして、シーア派が慣習的に行なっていた聖人崇拝や聖者廟詣を偶像崇拝と強く非難し、イスラムをより預言者の時代に近いかたちにすべしとし、反対する者に対しては「ジハード」を行なうべきと唱えていました。
このイスラムの改革運動の実現を政治的・軍事的に支えたのがサウジ王家でした。サウジ王家の統治の正当性は、ワッハーブ派の守護者としての正当性だったのです。サウジ・アラビアでは現在でもイスラム法によって人々が裁かれ、女性も全身黒づくめという厳格なスタイルが貫かれているのはこのためです(ワッハーブ派はサウジ・アラビアだけでなく、湾岸諸国に多く居住しています)。
言い換えるなら、ワッハーブ派による建国は、現在でいうところのイスラム原理主義者たちによる国家建設であったのです。

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