イスラムを遵守しないサウジ王家はジハードの対象
ウサマが激怒した理由は、ワッハーブ派というイスラム原理主義的な思想背景なくしては理解できないのです。つまり、彼はイスラムを尊守しない王家は、必要のない存在であるだけでなく、いわゆる「ジハード」の対象でしかないと判断したのです。
だからこそ、彼は「ジハードによってアメリカ軍をアラブ世界から追い出し、サウジ政府を打倒してイスラムの聖地を解放すべし」として、王家に真っ向から対決姿勢を打ち出したのです。
ウサマはサウジを出国後、一時スーダンにて建設事業を行ない、財政的な安定を得ることに成功します。ウサマは3億ドルともいわれる遺産を受け取っていましたが、追放により資産が凍結されたために、財政を立て直す必要があったのです。
この間にアルカイダは国際的なネットワークを構築し、組織の拡大に成功したといわれています。ですが、この成功に危機を感じたアメリカとサウジの圧力により、ウサマはスーダンに滞在できなくなり、アフガニスタンに避難することを余儀なくされます。
最終的にはタリバンの庇護のもと、アフガニスタンにおいてアルカイダの軍事キャンプを設立しました。その後、アルカイダは1997年のルクソール事件では財政援助を、1998年にはスーダンのアメリカ大使館爆破事件などにも関与していたといわれています。
そして、2001年にはいわゆる9・11として知られるアメリカ同時多発テロを引き起こしたのでした。ウサマはこの事件の首謀者とされ、国際手配されることとなりました。その後、10年以上もの逃亡・潜伏期間を経て、2011年にパキスタンでアメリカ軍によって射殺されたことは、まだ記憶に新しいかもしれません。
ウサマが射殺されたからといって、アルカイダが消滅したわけではありません。たしかに2000年代前半にはアメリカ同時多発テロによる取り締まりの強化によって、資産の凍結や、幹部が国際手配されたり、逮捕されたことで、アルカイダは組織としては壊滅的な打撃を受けました。
ですが、この壊滅的な状況を改善したのが、「アラブの春」による中東の政情の不安定化でした。各国政府、とくにイラクやシリア、リビアなどで中央政府の権威が弱まったことで、アルカイダの活動領域が拡大し、人材、武器なども豊富に手に入れることがふたたび可能となったのでした。
そもそも、アルカイダは組織としては、ウサマを長とした中央集権的な確固とした組織であったわけではなく、緩やかなネットワークであったといわれています。アルカイダのシステムはよく「フランチャイズ化」されていると説明されています。
つまり、アルカイダの傘下に入りたい集団は、金や武器などをアルカイダ本部に上納することを条件に、アルカイダ本部へと申し込みを行ない、その後、厳しい審査を受け合格した集団のみが、アルカイダへの加入を認められているのだそうです。認可された集団の中には大規模なものもあれば、数人しかいない小集団もあります。
こうした緩やかなシステムであるがゆえに、世界中にアルカイダの分派の設立が可能になっているのです。アルカイダがこのようにフランチャイズを可能としたのは、イスラムという共通基盤だけでなく、「反米」および「反イスラエル」という共通項となりやすい、わかりやすい「旗」を掲げたことにあります。さらに、ウサマの活動範囲の広さや、国籍を問わない組織づくりも、アルカイダを世界中に拡散させた一因であるといえるでしょう。

(文:岩永尚子)
日本では珍しい女性中東研究家。津田塾大学博士課程 単位取得退学。在学中に在ヨルダン日本大使館にて勤務。その後も専門のヨルダン教育現場のフィールドワークのために、スーツケースを抱えて現地を駆け回る。2012年まで母校にて非常勤講師として「中東の政治と経済」を担当。現在は名古屋にて子育て奮闘中。「海外投資を楽しむ会」最初期からのメンバーで もある。