橘玲の世界投資見聞録 2015年12月3日

ISが「神の名の下に無辜の市民を殺す」論理を
イスラームは、完全否定できるのか?
[橘玲の世界投資見聞録]

「死や不幸は神の意思として受け入れる」という信仰

 ムスリムの法学者として中田氏が何冊もの入門書を出したのは、日本にイスラームを布教する、ないしはイスラームに対する正確な知識を伝えるためだろうから、無用な誤解を招く話題を避けるのは当然のことだ。そのため、シャルリーエブド襲撃事件についても、日本人の誘拐・斬首についても直接の言及はほとんどない。

 だがテロについての中田氏の立場は、2001年の同時多発テロへの次の一文によく現われている(『イスラーム 生と死の聖戦』集英社文庫)。

ジハード=テロというイメージが広がったのは、いわゆる9.11事件からでしょう。ハイジャックしたジェット旅客機で体当たりして、ニューヨークの世界貿易センタービルを全壊、米国防総省ビルを半壊させた事件は世界中に衝撃を与えました。

 もちろん中田氏はテロを肯定しているわけではない。「実行者はムスリムであったかもしれないけれども、そして彼らの主観としてはジハードをしているつもりであったかもしれないけれども、あれはあくまでも世界各地で起きている反米闘争のひとつであって、ジハードとは言いがたいものなのです」「イスラーム学者としては『自爆テロはいけません』と言うほかありません。そもそもイスラームでは自殺は禁止されているのです」と述べているのだから。

 だがここで誰もが奇異に感じるのは、“事件”についての描写だろう。中田氏は「建物」の破壊について書いているものの、ハイジャックされた旅客機の乗客や、世界貿易センタービルで働いていたひとびとの死についてはいっさい言及していないのだ。

 私の理解によれば、これは中田氏がテロの犠牲者を軽んじているからではなく、近代的な市民社会とは死生観が根本的に異なるからだ。

 イスラームにかぎらず、ユダヤ教やキリスト教でも同じだが、この世界は無から神が創造し、神は過去から未来永劫に至るまで宇宙で起きるすべての出来事を知っていると考える。そうであれば、生も死も、それがいかなるものであれ神の計画ということになる。このような立場からは、死や不幸を「理不尽だ」とか「こんなことがあっていいはずはない」と考えることは間違いだ。それは神の意思を否定することになるのだから。

 ハイジャックされた旅客機に乗っていた乗客たちが感じた恐怖や、世界貿易センタービルで炎に包まれたひとびとの絶望を神への疑念に結びつけてはならない。遺族が悲しむのは当然だろうが、すべての出来事を神の御心として受け入れるのが正しい信仰なのだ。

 パリの同時テロに関する報道に比べ、それ以前のレバノンやイスタンブールのテロがほとんど報じられず、シリアやイラクではさらに多くのひとたちが殺されている、との批判がある。だが原理主義的なイスラーム(サラフィー主義)では、こうした議論も死を否定的にとらえているという意味で、神を疑念にさらしていることになるだろう。

 この世界に起きたことで「間違っている」ものはなにひとつなく、自分の夫や妻、父母や子どもがなぜ犠牲になったのかは人知を超えている。善悪を評価できるのも神だけなのだから、9.11は「飛行機が建物を壊した事件」と説明するほかない(パリの同時テロは「サッカースタジアの近くで爆発があり、劇場とレストランが破壊された事件」になるだろう)。

 中田氏がハイジャック犯の死について述べているのは、犠牲者よりも(ムスリムを名乗る)犯人を重んじているからではなく、その死がジハードであるか否かがイスラーム法において問題になるからだ。それ以外の死者は「神の御心によって召された」だけで、イスラーム法では議論の対象にならないのだから、わざわざ取り上げる価値はないのだ。

 もちろんこうした説明をほとんどのひとは受け入れないだろうが、それはしかたのないことだ。(私を含む)大半の日本人は、アッラーへの帰依による価値観の全面的な転換を経験していないのだから――ということになるのだろう。

サラフィー主義では、自由や平等、人権、デモクラシーなどの近代的な価値を認めない

 神についてのこうした極端な(原理主義的な)見解は、自由意志についての深刻な問いを引き起こす。すべてを神が決めているのなら、どれほど理不尽な出来事も運命として受け入れるほかない。欧米の植民地主義も、イスラエルの建国も、ムスリムに対する差別や偏見もすべて「神の意思」であるとするならば、ジハードする必要もなくなってしまう。

 しかしその一方で、クルアーンは侵略者へのジハードを義務とする。ムスリムは自由意志によって、「聖戦」に参加しなければならないのだ。

 そうすると神は、ジハードの機会を与えることで最後の審判の材料を集めているのだろうか。しかし神の全能性によれば、誰がジハードを選び、誰が尻込みするのかもすべて知っているはずだから、けっきょく「起きたことはすべて正しい」という話に逆戻りしてしまう。

 この難問に対して中田氏は、この世界は過去から未来へと連続するものではなく、神が一瞬ごとに創造しているのだという。私たちはすべて、「過去」の記憶を持たされてこの瞬間に生まれ、そして消えていくのだ。

 だがリセットされて消滅する前に、私たちは「自由意志」によってなにかを選択することができる。この選択によって世界は分岐し、「創造→選択→消滅→創造→」の繰り返しによって無数の「現在」が生まれる。中田氏の世界観は、量子力学における多重宇宙論のようなものなのだ。

 これについて、中田氏は次のように書く。

私が寝ている世界、そもそも、私がいない世界とか、まさに世界が始まってから終わりまでの無数の世界がすべてアッラーの知識の中にあるわけです。その中に、子どものころからのいろいろな無数の私がいるわけです。もう死んでしまっている私もいるかもしれません。さまざまな私が無数にあって、その中にいまの私もいるわけです。すべてが実は同格に存在している。けれども、この、いま私たちが生きているこの世界、選択肢だけが、私一人だけでなく世界中の人にとって、唯一そこで人間が意識を持っている世界である『イスラーム 生と死と聖戦』)。

 正直なところ、中田氏の「思想」をどのように理解すればいいのか私には判然としない(理解する必要があるのかどうかもわからない)。ただしこの解釈では、9.11やパリ同時テロの犠牲者は無数の世界のひとつでたまたま死んだだけで、それ以外の世界では生きているのだから、「現在」という仮象の出来事を嘆く必要はない、ということになるのだろう。――この説明で遺族がどれほど慰められるかは知らないが。

 私のような凡百の徒には、このような複雑怪奇な立論が必要になるのは、「神による世界の創造」を前提としているからだと思える。この前提を外してしまえば、無数の宇宙で無数の「わたし」が生きているという荒唐無稽な(「宗教的な」ともいえる)お話をする必要もなくなるはずだ。

 ムハンマドは6世紀後半から7世紀前半のひとで、進化論や分子遺伝学、相対性理論や量子力学はもちろん万有引力の法則すら知らなかった。いくら宗教的天才とはいえ、むかしのひとが考えたこと(それも、たたかいのなかで味方を叱咤激励するためのとっさの言葉)を現代社会に通用するように“論理的に”語ろうとすれば、このような思考の迷宮にはまりこむのは当然に思えるが、これもまた信仰を知らないものの戯言だろう。

 現代イスラームのなかで、ムハンマドの時代を重視するスンナ派の宗派をサラフィー主義という。これは初期イスラーム(サラフ)の時代に復古すべきだという「原理主義」で、中田氏は自ら認めるようにサラフィー主義者だ。


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橘 玲(Tachibana Akira) 作家。1959年生まれ。早稲田大学卒業。「海外投資を楽しむ会」創設メンバーのひとり。著書に『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』『(日本人)』(幻冬舎)、『臆病者のための株入門』『亜玖夢博士の経済入門』(文藝春秋)、『黄金の扉を開ける賢者の海外投資術』(ダイヤモンド社)など。
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