たとえば、昔の日本では障害者は「かわいそうな人たち」であり、そのような人たちを働かせることは「虐待」だと考えられていた。だから、障害者は家に閉じ込めて何もさせないことが正しいことだと考えられていた。だが、今は違う。ご存じのように、今の障害者支援のメインテーマは「障害者雇用」だ。障害者の人たちに、いかに多くの働くチャンスを提供するか、働く場を作るかがテーマだ。もちろんこれは、日本の労働力不足のために行政の都合でそうなったわけではない。障害者自身が働きたい、社会に役立つ人間になりたいと願うからこそ、そこを支援する人たちが増え、障害者雇用が障害者支援のメインストリームになったのだ。

 障害者支援の最前線を走る株式会社ミライロの垣内俊哉氏は、かねて「バリアフリーからバリアバリューへ」と提唱している。これはすなわち「障害者には特有の価値があり、その価値を高めていける社会にしよう」という主張だ。ここでいう「価値」とは、何かの形で社会に貢献できるということだ。障害者は健常者の庇護や支援を受けるだけの存在ではない。自らが何かの価値を生みだせる存在なのだ、という思想である。どのような人間にも価値はある。それは、「人は誰でも社会に貢献する力がある」ということだ。

 曽野氏を批判するブロガーの多くは「社会に貢献していない人は死ねというのか?」と怒るが、僕自身は社会に貢献できなくなったらとっとと死んでしまいたいと思っているし、これまでの社会貢献活動でわかったことだが、社会に貢献していないと思われている当事者のほとんどが「社会に貢献できる人間になりたい」と願い、そうなれない自分に苦しんでいる。

 社会貢献の本質は、尊厳を奪われた人たちが尊厳を取り戻すためのお手伝いをすることだと僕は思っており、それは高齢者に対しても同じだ。ちなみに僕の父親は75歳まで船乗りとして働いていたが、高齢のために引退した後、ボランティア活動をやろうとして近所の市民団体のボランティア募集に応募したのだが、高齢を理由に断られた。昔の男らしく、その話を淡々と語ってくれた父だったが、社会貢献を標榜して活動している僕はその話を聞いてとてもいたたまれない気持ちになった。なぜなら、自分の父親がまるで「あなたはもう社会からは必要とされてない人間です」と、こともあろうにボランティア団体から突き付けられた気がしたからである。

 と話がそれて恐縮だが、ともあれ後期高齢者だって社会に役立ちたいと考えている人間は多いし、人間はいくつになっても可能な限り社会に貢献して生きていくべきだ。たしかに曽野氏の今回の表現には、僕も多少疑問を感じる部分もある。大作家に対して僭越ではあるが、もっと違った伝え方をすればよかったのに、とも思う。「高齢者は適当な時に死ぬ義務がある」ではなく、「死ぬ覚悟を持て」と言っていれば、もっと真意が伝わったのではないだろうか――。

 しかしどのような表現であれ、それに批判するにせよ賛同するにせよ、言わんとしていることの本質を汲み取る「リテラシー」は必要だと僕は思う。