前回の記事で、「世界でもっとも安全なはずのヨーロッパでテロが頻発するようになった理由はさまざまだろうが、私の理解では、その深淵には長い植民地支配の歴史がある」と書いた。
[参考記事]
●最後発の日本と違い、大航海時代から始まった植民地支配をいまさら「反省・謝罪」をしない欧州・フランスの事情
これが私の独断でないことは、たとえばフランス近現代史の本に次のように述べられている(N.バンセル、P.ブランシャール、F.ヴェルジェス『植民地共和国フランス』岩波書店)。
今日の「フランスの若い世代」の約三人に一人は、旧植民地出身である。その彼らのアイデンティティを植民地共和国の歴史に立ち戻らずに作り上げようとしても、破綻は目に見えており、ルサンチマンや憎しみが増幅される結果にもなりかねない。このままでは、フランス本国と海外領土の双方において、新たな緊張が生まれるだろう。
この予言的な一文はパリ同時多発テロが起こるずっと前、2003年のものだ。その頃からすでに移民出身の若者たちの暴動が社会問題になっていたが、歴史家たちはその理由を、「フランスが過去の植民地の記憶を否認し、歴史を修正して美化しているからだ」と批判したのだ。
もちろん私はこのことで、「テロの標的になるのはフランス側にも非がある」など主張するつもりはない。ただ日本だけなく(あるいは日本以上に)欧米諸国でも、「歴史問題」は深刻だということは押さえておく必要があるだろう。
それではフランスはなぜ、これまで植民地時代の「負の歴史」を直視せずにすんできたのだろうか。そこにはフランスとアフリカの旧植民地との奇妙な共依存がある。

アフリカこそが“現代フランス発祥の地”
南アフリカで長らくアパルトヘイトが続き、ジンバブエのムガベ大統領がブレア政権と激しく対立したように、イギリスとアフリカの大英帝国の旧植民地との関係は緊張をはらんでいる。それに対して、仏領西アフリカや仏領赤道アフリカが「植民地問題」で旧宗主国と対立することはない。これがフランス人にとって、「自分たちはイギリスとはちがう」という植民地神話の根拠になっている。
だがその一方で、イギリスがかつての植民地から軍事的に手を引いたのに対し、フランスはオランド政権になってもマリや中央アフリカに派兵している。これにはもちろん資源獲得などの思惑もからんでいるのだろうが、『フランス植民地主義と歴史認識』(岩波書店)で平野千果子氏は、「アフリカこそが“現代フランス発祥の地”」だという歴史がその背景にあると指摘する。
1940年6月22日にフランスはドイツに降伏し、パリ南東のヴィシーに傀儡政権が誕生した。これに反対してロンドンからフランス国民に徹底抗戦を呼びかけたのがドゴールであることは広く知られているが、当初、連合国では彼の存在はまったく評価されていなかった。共和政の正当な後継者を自称するものの、国家の本質である「領土」と「国民」をまったく持っていなかったからだ。
そこでドゴールは、ドイツとの休戦協定で植民地の主権がフランスに残されていた(対ソ戦を見込んだヒトラーの懐柔策とされる)ことを利用し、ヴィシー政権を揺さぶるために、植民地の総督たちに働きかけていく。
ヴィシー政権の国家元首ペタン元帥は軍人のあいだに圧倒的な支持があったし、開戦当初はヒトラー率いるドイツの勝利が確実視されていたこともあって、最大の植民地であるアルジェリアもヴィシー派で、ドゴールの側についたのは南太平洋やインドの仏領の都市など数少なかった。
ところがここで、仏領赤道アフリカのチャド総督をしていたフェリクス・エブエがドゴールに呼応する。エブエはカリブ海(南米北端)の仏領ギアナ出身で、フランスで教育を受けて植民地行政官となり、チャドでフランス植民地史上初の黒人総督となった。カリブ海ではフランス革命の共和主義が黒人奴隷を解放したと信じられており、共和政こそが「真のフランス」だった。エブエは他の植民地総督に働きかけ、その尽力によって4カ月で仏領赤道アフリカの4カ国(チャド、中央アフリカ、コンゴ、ガボン)とカメルーンをドゴールの指揮下に入れることに成功した。
これによってドゴールは、248万2000平方キロの「領土」と600万を超える「国民」を持つことになり、自由フランスの首都をコンゴのブラザヴィルに構えた。翌41年9月にはフランス国民委員会がロンドンに発足するが、ヴィシー政権に代わる共和政の「正統政府」はアフリカから始まったのだ。その後、米英連合軍の北アフリカ進攻を経て43年6月にはアルジェリアの首都アルジェにフランス国民委員会(CFLN)が発足し、これがパリ解放後の臨時政府の母体となる。
エブエは対独レジスタンスの功績を認められ、ドゴールのもとで仏領赤道アフリカ総督の地位にまで上りつめた。1944年にカイロで客死すると、植民地出身者・黒人としてはじめて“国家英雄”を祀るパリのパンテオンに埋葬されている。
これが、「現代フランスはアフリカから生まれた」という歴史だ。

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