「もうかばいきれない」
舛添氏の“味方”が引導を渡した

 そして翌週の月曜日の13日、東京都議会の総務委員会で舛添問題の集中審議が開催された。

 この日、舛添氏は、共産党が14日に提出する方針の知事不信任案について「可決されると(8~9月の)リオデジャネイロ五輪・パラリンピックの最中に選挙を行わなければならない。(終わるまで)猶予をいただきたい」と発言している。官邸の「舛添切り」の意向は、舛添氏には伝わらなかったのだろうか?

「13日の集中審議の段階で、舛添さん自身は辞めないでも済むと思っていたようです。というのも、舛添さんは、その前に『東京自民党都議団のドン』と呼ばれ、都政に大きな影響力のある東京都議の内田茂さんから、『まだ辞めるのは早いです。しばらく様子を見ましょう』と言われていたんです。内田さんも官邸が『舛添を切れ』と言っているのは、当然知っていますから、頭の中でも『切らざるを得ないなあ』とは分かっていたはずですが、なかなか方向転換ができないでいたわけです」

 舛添氏があっさり自分の非を認めていたら、もっと早い段階で辞任ということになっていただろうが、舛添氏は徹底抗戦の構えを崩していなかった。

「舛添さんの政治資金の使い方は、違法だと断定できるものではありません。理屈で言えば、舛添さんは辞めなくてもいいかもしれない。それに加えて、意地もあります。舛添さんが政治の世界に入ったのは、1999年東京都知事選挙が最初で、この時は石原慎太郎氏に惨敗しました。そして、2001年に自民党候補として参院選に当選し、国会議員となったものの、2010年に自民党を離党し、新党改革を旗揚げし、しかし、それもうまくゆかず、今度は都知事になった。そういう流れの中で、舛添さんにとっての都知事の職というのは、自民党中央に対するリベンジであり、東京オリンピックまではこの地位を絶対明け渡さない、という強い意思があったわけです」

 だが、世論は舛添バッシングで盛り上がる一方。自民党は、「このままでは参院選で惨敗する」と追い詰められていった。その空気を舛添氏の後ろ盾だった内田氏も感じ取り、「舛添さんをかばいきれない」と観念したのだ。

「ただし、追い詰められた舛添さんは、ますます態度を硬化させ、『不信任決議案が提出されたら、都議会を解散する』と周辺には語っていました」

 自民党や公明党を含む7つの会派は、15日に開かれる本会議に共同で不信任決議案を提出し、採決することを決定。舛添氏と都議会の全面対決も浮上していた14日、異変が起きた。